教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 284回 臨時休校中の過ごし方課題 だれの課題ですか?

「臨時休校が始まり、保護者や児童、生徒らは戸惑いを見せながら突然の春休みに臨んだ。家庭や地域での子供たちの過ごし方も、新たな課題として突き付けられている。」(新聞情報)
さらに、親の声として次のようなことを取り上げています。
「子どもが自宅でゲーム三昧になっている」(母親)「中高の学生がファーストフード店にたむろしている。」(学校の先生)


急に休校になったことで、家庭も学校現場も戸惑いを隠せないですね。
批判はいろいろあるようですが、今は、危機感をもってのぞむしかないです。
問題は、上のニュースなのです。


「新たな課題として突き付けられている」とは、「どんな課題」が「誰に」つきつけられているのでしょうか。
時々、懇談会で親からゲームの相談を受けることがありましたが、やはり、家庭
の問題です。家庭で教育しなければならないことを学校の責任のように言われる
人もいます。
できていないことを責めてはいません。できないことの方が多いからです。
大人も子供たちも反省する材料にすればいいです。


子どもは、学校や家庭から離れたとき、おとなの監視下から外れたとき、どのよ
うな過ごし方をしているかが問題になります。
学校では、先生に向けた顔、家庭では親に向けた顔、しかし、学校と家庭の間で
は、子どもたちは素顔を見せることがあります。
「たむろしている」ことは、子どもたちにとって連帯感であったり癒しであったりします。同世代同士の愚痴を聞き合う大切な時間です。ただ、今は、コロナ感染抑止のための休校ですから、その趣旨をどれだけ指導したかということです。指導を聞いてくれる子どもたちと学校とのつながりがどれだけあったのかも問われます。


話しは少し昔に戻ります。
私は阪神淡路大震災を経験しています。
私の勤務校は、避難所になりました。
もちろん、地震のために休校が続きました。
学校職員の中には、物資運搬やたいへんな避難所に出かけてボランティアをしたらという意見もでました。
でも、私は、意見が違っていました。ボランティアをすることに反対ではありま
せん。ただ、このような非常事態の時、それぞれの社会的立場にある人間は、
自分たちの目の前の仕事をしなくてはと考えました。


特に先生は、子どもを守ることに専念すべきです。
学校から離れて子どもたちは、管理下(規則正しい学校)におかれていた
のが、規則に縛られない空間に追いやられたのです。不安や戸惑いのなかで、
子どもたちの心のサポート(もちろん無事か、けがしていないかも含めて)を
するのが先生の仕事、責任だと思いました。


本当の指導は、子どもが先生の目から離れたときです。
独りで勉強、自習できる子どもにしてきただろうか、独りで判断して動けるよう
なスキルを身につけさせただろうかと反省することばかりでした。
今の時期、担任や教科担任が指導してきた成果が問われています。
先生がいなくても学べる子どもになっていないことの事実を考えることが必要
です。


話はもどります。
休校になり子どもたちは家庭に戻っています。
家庭の事情は異なります。
その事情を把握して、子どもたちをサポートすることが大切だと思います。
家庭訪問も感染地域では限界があります。
なんらかのつながりは必要だと思います。


誰の課題か、親は親の課題、先生の課題、学校の課題として引き受けることしか
ないですね。そうでないと、また、特定の誰かに責任を押し付ける世の中になり
ます。
非常時は、いろいろなところで、いろいろな人々が今までの在り方、足りないも
のを振り返るチャンスになります。
これらすべてを「仏さまの贈り物」と言います。

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