教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 239回 学校の保育園化

 学校は公教育として、それぞれの家庭で育てられた子どもたちを引き受けて、社会の成員としてふさわしい知識と心を育てる場所です。


しかしながら、昨今、その学校が保育園化しています。
ひたすらけがのないように、問題を起こさないように心がけて、子どもたちを託児所のごとく預かっている場になっているところがあります。
そうではないという学校も多いかと思いますが、一方では、保育園化が進んでいます。
問題というのが、ほとんどが保護者対策です。
子どもを育てる上で、ともに協力関係を築かなければならない保護者を対立関係としてとらえています。(そうならざる要因もあるのですが)


ある学校では、保護者と面談するときは、担任だけで会わないで、もう一人先生が同席するようにという指示が出されています。
あとで、証人となるためです。あとで、保護者が言った言わないともめないためです。保護者と担任の話し合いをはじめから信用していません。
保護者は、担任だから話せることもあると思います。(信頼関係が成立しているとき)


逆に、担任だから話せないこともあります。
その場合は、管理職と面談すればいいことです。
ある場合は、担任一人にすべてを対応させ、結果が悪いときは、担任に責任を押しつけている学校があります。
学校長は、出張でかなりの時間、学校を開けます。先生が子どもたちにどのように指導しているかなど、ほとんどわからない人もいます。
私の勤務校の管理職は恵まれていました。
各教室をまわり、学級の様子を把握し、ときどき、授業についてのアドバイスもしておられました。
報道等で問題がおきると、決まって管理職は「聞いていませんでした」という答えがかえってきます。聞いていない以前に、見ていなかったというほうが正しいでしょう。
学校のことを知らなさすぎます。


学校は、保護者の責任追及を恐れて、責任問題が発生しないようにします。
先生も時には、責任を免れるために、子どもたちのトラブルの間に割って入らなくなります。こうして、いじめは黙認されます。
学校の中でいじめが気付かないということはありません。ただし、ネット社会においては、潜在的に進行していることがあります。
それでも、生徒や子どもを日々見守っておれば、なんとなく感じるものがあるはずです。先生の感性が大切になってきます。


 管理職は、先生の個性的な指導を嫌います。(そうでない方もおられましたが)
 問題になることを恐れるからです。
 まじめな先生ほど、学校の中では壊れていきます。退職された人もいました。


 学校の核は「学び」です。
 学びがいのある学校にしたいものです。
 それをめざして、がんばっている学校もあります。
 一人孤軍奮闘しておられる先生もおられます。
しかし、孤立してはだめですね。


 そのためには、保護者の協力が不可欠ですね。
 ともに、同じ方向をめざして歩む必要があります。
保護者の信頼は、子どもを通して得られるものです。
毎日、学級通信をだしておられる先生が保護者の評判を得ていることがありました。それは、その先生の意図ある行動として意味があります。
ただ、私などは、学級通信は、学校から自宅に送り出す子どもたちの姿だと考えてきた人間です。
子どもたちが帰宅したとき、「ただいま」と元気のよい顔、姿。
「おかあさん、今日ね。こんなおもしろいことがあったんだよ。」と嬉しそうに言える子どもたちを送り出すことです。
ですから、私は、個別懇談の時に、保護者に「学校の様子を話しますか」という質問を必ずしてきました。
学校は子どもの子守をする所ではなく、教育的な意図をもって子どもと関わっていく場所であることは、だれもが周知しているはずなのですが・・・

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