教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 240回 過保護は 子どもよりも大人が求めている

親の過保護、どこからが過保護なのか、その基準ははきっきりしません。
ただ、言えることは、過保護は子どものためではなく、親自身のためにあるということです。
「どうして自分で服が着られないのよ。お母さんがしてあげるからね。」
「お母さんがいないとだめだね。」
「お母さんの言ったとおりしていたら心配ないのよ。」
これは、お母さんが子どもに依存しています。
お母さんがいるから、あなたがいるのよと訴えています。
私の母親も小学生の時、このような態度で私に接していました。


子どもが失敗すると、すぐに口と手をだします。
小さなこどもが道でつまずいてこけたとき、お母さんは、すぐに抱き起します。(危険が伴い、けがをしている時は別ですよ)
その子どもが自分で立ち上がることができる状態にあるのにもかかわらず手を貸します。
「お母さんから離れて歩くからよ。」
「手を放したらだめといったでしょ。」
「ほんとうに、あなたはぼうっとしているわねえ。」


やがて、子どもの無能力を指摘します。
親は、子どもには自分の助けがないと生きていけないような錯覚に陥ります。
子どもは、過保護にされると自分には力がないという気持ちが強くなります。
無力感のようなものが根付くことになります。


親の甘やかしや過保護は、子どもを信頼していないからではないでしょうか。
子どもは、過保護にされることで、自分に対する無力感が大きくなり、それに反して、親の欲求、感情が満たされます。
親が子どもに干渉することで、生きがいを感じているのかもしれません。
言い過ぎたらごめんなさい。


子どもが大きくなるにつれて、親が子離れできない人を見かけます。
子どもたちの方が親離れは早いように思います。


極度に甘やかされた子どもが小学校に入学して、学校生活を送ると挫折の毎日が始まるのをご存じでしょうか。


学校や保育園で、他の子どもたちと同じように対処されることが挫折体験になります。
給食のとき、食べ物がうまく箸でつかめなくて床におとしてばかりの子がいます。家では、お母さんにサポートしてもらっていたのでしょう。
身体測定のとき、自分で自分の着替えができません。他の子どもたちは、さっさと服をぬいで並んでまっています。
先生は、○○さんの着替えを手伝ってあげるように指示します。
その子どもは、一見すると助かったという気持ちになりまずか、一方では、自分一人で着替えできないことに自信をなくします。
同年齢集団に出て初めて自分の力の足りなさを知ることがあります。


やがて、このような子どもは、仲間からバカにされたり、時にはいじめられたりすることがあります。
家庭は、社会に送り出すための姿勢とノウハウを身につけさせるところでもあります。


家ではどうなるのでしょうか。
「うちの子は、学校に行くようになってから、家では、急にわがままになり困っています。」という親の声を聞きます。


子どもがわがままをいうと、親はその要求に答えようとします。
子どもは、親を支配することで、自分の能力を肯定します。
子どものわがまま(大人でも同じですが)相手を支配するものです。
自分のいいなりにさせることで相手を支配します。
親や先生に自分に対して手をかけさせるように行動することがあります。


大人が、子どものいいなりになるということは(言いなりになるときも必要ですので)、やがて、子どもは大人をさげすむようになるということを覚悟しておかなければなりません。


子どもの能力、未熟な能力でありますが、それなりの尊重をしていかないと、子どもの自己価値観は育たないように思います。

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