教育随想 226回 森信三先生から学ぶ その3 「実践とは、どこか野暮ったく、泥臭い」
「かっこいい、きれいごとの好きな人は、とにかく実戦力に乏しい。けだし実践とは、かっこいい、きれいだけではすまず、どこか野暮ったく、泥臭い処を免れぬものだからです。」(森信三先生)
マスコミで答弁する先生の言葉は、常にきれいごとです。
だれでも納得するような言葉であり、誰にも心底理解されない言葉でもあります。
つらい事件があると「これからは命の教育を実践してまいります」という校長先生の言葉がテレビのインタビューで流されます。
さしさわりのない言葉が流れています。
今まで命の教育は一つもやってこられなかったのでしょうか。
少しは実践されたとしたらその反省がないのでしょうか。
命を育てる教育以外に別に教育があるのでしょうか。
学習を含めて、すべての活動は、子どもが自分自身を見つめ直す、周りの人々の命に気遣う営みではないのでしょうか。
学校に入ると、玄関前の花壇の花が枯れてそのままになっています。教室には、干からびた植木鉢、死んだ青虫が横たわっているカゴ、そこに命を大切にする教育があるのでしょうか。
命の教育は、もっと身近な営みの中にあります。
給食で命あるものをいただくという行為、そこに「いただきます」という感謝の気持ちを育てます。
種をまいてアサガオを咲かせたなら、最後まて死を迎えるまで見守っていく気遣いが必要です。
ヘチマやヒョウタンが学習園で干からびて誰にも振り返られることはありません。
植物は、最後に命の種をそっと実の中にしまいこんでいます。
やがて、春が来たら命を芽生えさせます。
こうして、命をつないでいきます。
命あるもの、ペットもふくめて死ぬまで見守り続けたいものです。
実践とは、具体的なものであり、きわめて先生にとっては、試行錯誤の連続です。そういう意味では、野暮ったいものですね。
先生の実践は参考書から取り出してきたものではありません。目の前の子どもの現実から悩み抜いて「どうしたらいいかな」と迷い抜いて導きだしたものです。かっこいいものではありません。導きだしたものが当たり前のふつうのことであることも多いですね。
周りに注目を浴びる実践には、子どもを軽視したものが多いです。
先生にスポットライトが当たりすぎている実践は、子どもが不在になっていることがあります。
しかし、先生も人間です。
注目を浴びたいと思っても責めることはできません。
ただ、自分を見失わないようにしたいものです
先生は黒子です。主人公ではありません。
先生は、常に、自分の驕りに警戒するようにしたいものですが・・・。