教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 224回 森信三先生の言葉から学ぶ その1

教育は哲学です。
先生自身の生き方以外からは生まれません。
世の中には、過去においても優れた先生が多くおられました。
しかし、その先生の生き方、哲学的なものに目を向けることが少ないようです。


国民教育の師父として「この人あり」の名声を高められた哲人、森信三先生の語録を紹介します。
今、先生の言葉を読み直してみても、未だに至らない私の姿が見えてきます。足元にも及ばない私でしたが、今、なお、私の座右の銘になっています。


「すぐれた先賢に学ぶということは、結局それらの人々の精神をたとえ極致の一端なりとも我が身に体して、日々の実践に生かすことである。」(森信三先生)


すぐれた先生に学ぶということは、先生に限らず誰でも心がけていることです。しかし、そのほとんどは技術をまねるということであって、その先生の精神、心のあり方、哲学を学ぶということではありません。
その先生の行動、実践を通して、その先生の精神的な世界に入っていくということがより重要ではないのでしょうか。



「99人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、自分一人はスタスタとわが志したこちら側を、わき眼もふらずに川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。」(森信三先生)


 一人で孤立するということではありません。向こう岸の実践を無視するのではなく注目します。それらを参考にしながら、我が道、実践を続けるということだと思います。
 実践を進めるときは「わき眼もふらずに」やってみることです。ぶれないようにします。私たち人間は、隣りの様子が気になるものです。それは、周りと比べて生きている面があるからです。(煩悩ですから)
学級の中で問題が起き始めると、それが継続されると、自分は先生としてだめなのかなと思ってしまいます。
しかし、はじめから先生になれる人はいません。
にもかかわらず、先生という職業についたときから「先生」と呼ばれていることが心苦しいものです。先生は、目の前の子どもの問題を克服することを通して、先生になっていくものだと実感します。
決して、今、うまく子供たちを指導できないからと自分を責めないでください。
手のやく子どもが現れたら、「ああ、神様、仏様の贈り物」だと思えばいいのです。あなたのために、贈っていただいたのですから、その子どもに全力で取り組み悩んでいくしかありません。
子どもという贈り物を通して、先生は人として修行していくのではないですか。


ちらちら隣の先生の実践を見ながらも前に進むことができたらいいですね。



「あいさつ一つによって、家庭が変わり、学校が変わり、職場が変わり、地域が変わり、運命が変わる。」(森信三先生)


近所の方とどのくらいの範囲であいさつをされますか。家の前を通りかかる人にも会釈するように努力しています。そうすることで、やがて、立ち話になり親しくなっていきます。
 自分から心の扉をあけることで、相手の心をも開けることになります。(期待してあいさつをしないように)


「朝のあいさつは人より先に」とも付け加えられています。


私が実践できているのは、これくらいかもしれませんね。相手があいさつを返すかどうかは問題ではありません。最初は、どこの者やという顔でにらまれることはありますが、それでも、何回かお会いするうちにまなざしを共有するようになるものです。
そんなとき、自分の心がさらに軽くなります。
これらのことが、子どもたちと先生の間においても言えることですね。

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