教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 217回 先生の無表情が 子どもを束縛から自由にする

「どうやれば正答が出せるか」
子どもたちは、教室で正答を求めにきています。
参観授業をみていますと、子どもたちは、先生の言葉の中から、表情の中から、先生の指示や思いを見つけだそうとしています。


一人の子どもが発言します。
すると先生が「それでいいのかな」正解が他にあることを示唆しています。
「そんな考えもあるね」と言いながら、暗に、その子どもの考えを否定しています。
そして、正解に近い考えが発表されると「うーん、そこまで考えたんだね」と、その子の意見を誉めます。
明らかに、先生の正解へ近づくための発言です。


子どもたちは、子どもに対する先生の関わり方、特に、表情と微妙な言葉のニュアンスを読みとりながら正解を求めようとします。
これは、低学年ほど強い傾向にあります。
先生は、無意識のうちに、考え方、答え方に対する暗黙の指示を出しています。
子どもが発言するとき、先生の表情を観察してみてください。
それぞれの子どもに対する表情、言葉のニュアンスが異なっています。
そのことを子どもたちは敏感に察知しているのです。


私は、子どもの考えに一喜一憂しないように、私の表情や言葉に子どもたちが束縛されないようにしました。
それが「無表情」「聞くだけ」の先生です。
すべてそうするのではなく、子どもたちが私の判断を気にする場面において、あえて実行します。
子どもたちの発言を聞いて、表情を変えない、黙って聞いているだけの場面を多く作りました。
そのことによって、子どもたちは、最初は、不安がることはありましたが、少しずつ慣れて自分たちの考えで話を続けるようになりました。


授業において、子どもたちの発言が先生の予想を裏切っていかなければなりません。先生の思い、予想、期待を越えていくことです。
そのために、先生の思いを外にださずに、子どもたちに対面する必要があります。
先生の気持を忖度するような子どもの発言を避けたいものですね。


子どもは先生の考えをやがて突き破っていき、単なる知識の習得に終わるのではなく、「先生の言うこと本当かな」「もっと他の考え方もあるのでは」「なんとなくわかるけどすっきりしないよ」など、子どもたちが自分の本心でわかろうとすることが大切ではないでしょうか。

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