教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 218回 話し合い学習で 話し合いが目的化する授業

私は、長年、話し合い学習を目指してきた一人です。
私が若い時に、話し合い学習と称する参観授業でいつも疑問に思うことがありました。話し合いにこだわるあまり、その学習内容が深まっていかないことでした。おしゃべりだけで終わっていることも多くありました。


でも、子どもが話し合っていると、子ども中心の学習のように参観者から見られることが多かったです。
「よく発言していますね」「全員が発言していますね」「みんな元気に参加しています」という参観者の声が聞こえてきました。
どうして学びの深まり具合が話し合われないのでしょうか。
話し合いによって、子どもたちのわかり方、迷い方にどのような変化があったかを
研修しないのでしょうか。
できる子どもが中心になって(発言力の強い子ども)話し合いを進めているように思いました。
そして、その話し合いの空気がどことなくぎこちなく、堅いものでした。
聞きあうというよりは、ひたすら言葉を発しているだけのようにも思いました。
子供同士の心の交流を感じることが少なかったように思います。


子どもたちの様子を見ていると、話し手が終わった時の表情が気になるのです。話し終わったら、それで一安心という顔をしています。
自分の考えを話したら、他の友達の考えが気になるはずです。
だから、自分の次の発言者の意見が気になるはずなのに、その友達の話の内容に集中しているようには見えないです。


もう一つ印象に残っている参観授業があります。
国語の授業でした。
私の師が指導助言することになっていた大きな研究会でした。
その授業は、45分間、子どもたちがお互いに話し続けていました。
話の内容がつながっているときもあれば、全くつながっていないこともありました。間合いなく、どちらかと言えば早口で話していました。


授業者は、横にたって見ているだけでした。
助言も介入もありません。
物語の登場人物の心情について話しているのですが、そこには、深まりはありません。ひたすら、横に広がるばかりです。
指導者が、発言を止めて内容を焦点化することはありませんでした。
子どもたちは「どうだ、ぼくたち、よく発言するだろ」と、参観者にアピールするかのように話し続けていました。


私は、何かが違う、これは学習ではない、単なるショータイムだと思いました。
問題のなにがどのように深化したのかよくわかりませんでした。
さらに、もっとおかしいと思ったことは、ほとんどの子どもがノートに書いてあるものを読み上げるように発表していたことです。
これは事前に先生によって指導されていたように感じました。
話し合いというよりは、発表会のようでした。


授業後の検討会では、多くの先生が子どもたちがよく発言していたことをほめておられました。
子どもたちが主体的に進めていたという意見も多かったです。
私は、先生方の意見には賛成できませんでした。


参観者の意見が出されたあと、最後に、私の師が指導助言をされました。
師はかなり厳しい顔つきでした。
「ここに来られている先生に言います。今日、見られたのは授業ではありません。45分間話し続けさせてはいけません。一回の話し合い活動は15分間が限界です。子どもたちのどのような学びの深まりがあったのでしょうか。ただ、横に広がっていただけです。」


厳しい助言でした。
指導者は授業の後の先生方の意見で得意満面な表情をされていましたが、師の発言できっと悔しい思いをされたことでしょう。


しかし、私も同じ意見でした。
話し合いが目的化してしまっている。
話し合いは学びの方法の一つにすぎません。
話し合い活動と問題の深まりとは、同時進行です。
さらに、話し合いは、子どもの心の交流を伴います。
立ち止まりと繰り返しを通して深まっていきます。

×

非ログインユーザーとして返信する