教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 215回 授業は  教科書を見ないで子どもを見る

授業するとき、教科書を持って子どもたちに向かいます。
しかし、できるだけ教科書は教卓の上におかれるほうがいいです。必要に応じて見ることはありますが、できる限り教科書を自分から遠ざけるようにします。


その理由は子どもたちから目が離れるからです。


授業している時は、子どもたちに指導している時は、子どもたちの表情、まなざしから目を話さないようにします。
授業は子どもたちとの真剣勝負です。
子どもたちの瞬時の反応を捉えます。
声にならない心の声を聞くために子どもから目をはなしません。


かつて、私が対外的な研究会で授業をしたとき、私の師にあたる先生に参観、指導をお願いしました。
私を厳しく育ててくださった先生です。
私は、愚かな弟子なのですが、私には厳しく温かく接していただきました。
その恩に報いることができなかったことが今でも心残りです。


その師にあたる先生が、私の授業を参観されたあとで、私のところに来られて静かに話されました。その一言が今でも強く心に残っています。
「先生、45分間の中で一度だけ腕時計を見ましたね。あそこから子どもが離れたのですよ。」


私は、ショックでした。
先生の厳しいまでの授業に対する思い、姿勢を改めて思い知らされました。
年間、何度も先生の教室に足を運んで授業を参観させていただいていました。その時も先生が授業中に教科書を手にとられたのを一度も見たことがありません。
先生は言われました。
「私は、子どもたちの前に立つときは、教科書の内容をすべて頭に入れています。」


それ以来、教科書を持たないといっても、時々、忘れてしまうことがあり手にとることがありましたが、できる限り意識して実践するようにしました。


算数や理科、社会科の教科書は手にもつことはありませんでしたが、国語の教科書をはなすのには苦労しました。
それでも教材文を暗記するくらい何度も読み返しました。
少なくとも本時の学習においては、持たないように努力しました。
それでも細かい言葉の部分になると、見直していました。


しかし、授業で子どもから目をはなしたとき、大切なものを見落としてしまうことを多く経験しました。


よく参観授業で他の先生の様子を見るとき、指導者が後ろにいる参観者をちらちら見て気にされているのをみると、とても教室には長くいることができませんでした。
その先生の授業が子どもに対してではなく、後ろの参観者のために授業をしているからです。


保護者の参観日、私の中に後ろの保護者が目に入ることがなかったら、授業者としてうまくできたと考えていました。
授業は、子どもと私との厳しい学びの場です。

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