教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 206回 話す・聞く指導(5)  答えられないも答えている

たずねられたら「かならず答えて」(聞き手として)


 先生と子どもの場合から考えます。


先生が子どもに質問します。その子がなかなか答えようとしません。
先生は、その子に向かって「黙ってないで早く答えなさい」という要求をだすことがあります。
 誰かに尋ねられたら必ず答えるというルールですが、果たして、必ず答えられるものでしょうか。返事ならすぐに返すことができます。
 しかし、質問の答えとなると難しいですね。


私は「答えられない」という状態も答えていることになると思います。


質問についてうまく考えることができない時「わかりません」と言えないで黙っていることも答えていることになるはずです。意思表示として答えているわけです。
「答えられない状態」を認めることこそ、コミュニケーションにとって大切なことではないかと思います。その時に、「早く言いなさい」と要求すると、子どもたちは「わかりません」という言葉をだすしかありません。
子どもの「わかりません」という言葉は、自分の思考を中断するときに使います。
沈黙しているときは、思考しているときです。
子どもに圧力をかけてしまうと子どもたちは委縮して、仕方なしに「わかりません」という言葉を吐き出します。


新学期のころ、授業で子どもたちを指名すると、「わかりません」「わかりません」の連続であることが多いです。「わかりません」と言えば先生は認めるだろうという思いからです。


 答えられない沈黙、そこには思考を巡らしている子どもの姿、あるいは、集団で言い出すのに不安を抱えている子ども、間違っているかもしれないので一歩が踏み出せない子どもの姿こそ、思考する姿としては素晴らしいのではないでしょうか。


学校教育は、効率、能率、合理的を重視するところがあります。
「さっさと」「早く」「もたもたしないで」など、時間短縮しようとします。
教育は効率ではなく、いかに無駄を多くするかだと考えます。
子どもが答えられない状態のとき、「今、まよっているんだね」「はっきりしてきたらあとで話してもいいよ」と、子どもの沈黙に安心感を与えます。
そうすることで「先生、ちょっと時間をください」という要求が子どもたちからでてきます。


子ども同士の場合
先生の待つ姿勢が子どもたちのコミュニケーションの基礎になります。さもないと、答えられない友だちに対して「なんとか言ってよ」「話さないとわからないでしょ」と厳しく対応することがあります。


深く自分の中で沈めて考えると、すぐには答えられないことのほうが多いです。右か左か、白か黒か二者択一で自分の考えを表明するのは、思考を途中で中断しているからです。
言葉で言い切ってしまうとき、思考の中断があります。


子ども同士の話し合いは、すぐに発言を連ねるのではなく、間をあけて、たどたどしく語るようにすることを目標にします。
話し手は、間合いを開けてから話すように心がけ、間がつまってきたら、「もう少し、間をあけよう」という子どもたちが発言できるようにします。

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