教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 172回  先生は 沈黙で子どもに語る

テレビをほとんど視聴しなくなりました。
たまに、テレビをつけると、バラエティ番組の騒がしさに困惑します。
言葉が流されてしまっています。
言葉に重みがなくなり、ひたすら、刺激的な口調だけが番組を支配しています。
会話の中に沈黙がありません。


先生が子どもに話すときはどうでしようか。
授業において、先生の言葉があまりにも多すぎます。
先生の焦りを象徴するかのような機関銃のような話し方。
「わかったでしょ」「わからないの?」「どうしてわからないの?」「何度説明したらわかるの?」・・・子どもたちは、先生の言葉を体の中に入れ込む時間がありません。


子どもたちが聞いていないことを知りながら、子どもたちの頭の上を滑らせていく話し方。
先生が質問して、間合いなく子どもよりも先に答えてしまう話し方。
師問・・・師答の授業の連続。子どもたちは、先生にひたすら合わせているだけの授業。教室の時計を気にしながらの勉強。「もう終わった」ではなく「やっと終わった」という安ど感。


低学年の子どもは特にそうですが、先生の話を耳に入れると、頭の中でゆっくりと反復します。それが、間合いがなく話しかけられると、その反復ができなくて頭の中がフリーズします。
言葉と言葉の間に間合い、沈黙を入れることで、子どもたちはゆっくりと話し手の言葉を追いかけることができます。


子どもに話すというのは、子どもたちの思考の動きのなかに入り込んでいくことです。
溶け込んでいくことです。
子どもたちの思考が止まったり迷ったりすると、先生の言葉に沈黙が入ります。
沈黙の中で、先生は子どもに話しかける言葉の修正をします。



子どもが悪いことをしてしまった時、つい、言葉で叱りつけることがあります。
でも、そこで、何も語らずに沈黙で向かい合ったらどうなるでしょうね。
子どもは、きっとしかられるという気持ちで座っています。
ところが、先生は何も語りません。
これほどつらいことはありません。
「○○くん・・・」と話しかけて、じっと彼を見守ります。
この時、すでに沈黙で多くのことを子どもに語りかけています。


教室で暴れて教室のガラスを割りました。
子どもは叱られることを覚悟しています。
先生は、だまってガラスの破片を処理します。
割った子どもは、先生が黙っていることに不安を持ちます。
先生は、片づけが終わったら一言だけです。
「○○くん、びっくりしたでしょ。けがはなかったかい・・・」
割った理由なんか聞く必要ありません。
子どもが一番よく知っているのですから。


沈黙は、子どもが頭や心を動かす時間を与えます。
言葉は 沈黙を背景として 出てくるものですね。

×

非ログインユーザーとして返信する