教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 173回 先生は人気スター、黒子、パートナー

先生誰しも子どもに好かれたいと思うものです。
特に、若い時は、子どもたちの人気者になりたいという気持ちはどこかにありました。
そのために、子どもたちの要求を無条件に受け入れることもありました。
自分から子どもたちと一緒に遊ぼうと誘うこともありました。いわゆる、子どもにいい顔をすることでした。
しかし、それらは長続きはしないものでした。


人気者になるために子どもと関わる卑しさがあるからです。
子どもたちにへつらうからです。
人気がでるかどうかは、子どもサイドの問題であって、先生が気にかけることではないですね。でも、好かれたいと思う気持ちも出たり入ったりですね。


黒子になる。
舞台にあがっているのは子どもです。
子どもを陰から支援するのが黒子です。
先生がめだってはいけません。


かつて、他府県に子どもミュージカルの指導が上手であるという先生の発表会を参観したことがあります。
体育館の上で、子どもたちがのびやかに歌い、踊っていました。
確かに上手でした。
ところが、フィナーレの総出演の踊りと歌になったとき、子どもたちの集団の前面中央に先生も一緒になって踊っていました。あたかも、主役のような得意げな表情で踊っておられました。
演出としてはおもしろいと思いましたが、私は、しっくりこないものを感じました。
なぜ、先生が最後に舞台の中央に上がる必要があったのでしょうか。
黒子であった先生が黒子ではなくなった瞬間でした。


テレビでよくあることですが、スポーツ選手が何かの優勝すると、時々、小学校の先生が恩師としてインタビューを受けておられることがあります。
「恩師」の「恩」という言葉を好みません。
特に、先生が「私は恩師です」と言われていたのが心に残っています。
恩師という言葉は、影響を受けた子どもが先生に向かって語る言葉であって、先生自身が自分の口で言うものではないと思っています。
「教え子」という言葉も気になる私です。


かつてその子を教えたことはあっても、子どもから見ると「その先生に教えられた」という印象はないかもしれません。
教え子は先生が指摘するものではなく、向こうから先生を頼ってくるものです。




さて、私がいいたいのは、次のパートナーの関係です。
子どもと対等で物事を考えることです。
子どもを操作し動かす対象としてではなく、子どもともに歩むことです。
「子どものために」ではなく「子どもにとって」どのようにかかわっていくのがよいのかを悩むことです。
「子どものために」という言葉には、我欲が入っているように思います。
「子どもにとって」という言葉を使ってみると、子どもと距離をおいて考えられるように思いました。(これは私だけかもしれません)


子どもと意見が違うことを楽しみ、時には、反論にあう厳しさ、そのような対等の関係になることも大切です。
対等の関係とは、同じ人生を歩む者としての関係です。
年齢に関係なく、そこに「命」授かっている者としての連帯感でもあります。


先生は指導者ですから、すべてその姿勢がよいとは言いません。
黒子、パートナーの関係を自由自在に築くことのできる先生の柔軟性が求められているように思います。

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