教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 170回 先生の言葉は  実践に裏打ちされている


「先生は、自分の実践の中から言葉を発しなければならない。」と、若いころから尊敬する先生によく言われてきました。
自分が成し得たこと、成し得なかったこと、失敗したことなどの中から、自分の理論を構築しなければならないと考えます。


参考書の理論は出発ではなく、いろいろと実践されてきたことをつなげる時に活用します。ですから、その先生の理論がどこからどのような実践からでてきたものかを推し量る必要があます。


他人の実践を参考にするのは大切なことですが、そのまま検討することなく追試と称して実行するのは疑問を持ちました。
追試がだめといっているのではなく、少なくとも先生が自分なりにその計画の根拠を考える必要があります。


実践=インターネットの案 ではありません。
どんなに拙い実践であっても、先生とその学級の子供たちとの営みから得たものが尊いものであると思っています。
学級実践や学級経営、学級づくりが100人の先生がいるなら、100通りあるはずです。
その実践をお互いに批判しあうのではなく、その先生のどのような思いと意図から生み出されたものかを理解しあうことです。


私は、私の師となる先生の学級に長い間、参観するために通いました。車で、往復8時間かけて通いました。
その参観で、その先生の技術よりも、その方法の裏にある先生の哲学的な考え方、人生観、子供観に関心がありました。
先生の姿勢の根幹にあるものが私には必要なものでした。


同じ参観に行かれた先生が、その先生の技術を自分の教室で実践してみたけれどうまくいかなかったと言われていました。
子供も先生という人格も違うのですからあたり前のことですね。
方法や技術をいただいたとしても、咲いている花を生け花にするようなものです。
花瓶にさしたら、そのうちに枯れてしまいます。


勉強会にこられている先生の学年世話の先生が学校で研究授業をすることになったそうです。その先生がされようとしたところは、算数の単元で、去年、勉強会にこられた先生がされた同じところをしようとされました。そのために、去年の指導案を借りたい、そのままやってみたいと依頼されたようです。
頼まれた先生も戸惑われましたが、同じ研修のグルーブの先生が「自分の実践を考えなさい」と言われたそうです。
そこで他の場面をすることになったのですが、その理由がネットで指導案があったからということでした。


この話を聞いて悲しくなりました。
先生は実践者なり
私のお話していることは、自分の実践の中から出てきたものです
私とその時々の子供たちのぶつかり、交流の中で育まれたたものです。
とても小さくてつたない実践ばかりです。
独断、偏見、一人ヨ仮の実践もあります。
しかし、私にとっては、その時においては、それがよりベターでした。


若い時は若いなりに子どもの事実をもとにして授業案を組み立てます。
ベテランの先生は、前に実践したことをできれば捨てて、新しく挑戦することも必要ではないでしょうか。
少なくとも指導案は、常に、改訂していくことで、目の前の子どもたちに対応できるものになります。

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