教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 169回   教育 その虚しさ

子どもが学習に積極的になってきた、忘れ物をしなくなった、発表するようになってきたなど、先生にとって、そのような子どもの姿を目にするとうれしいものですね。
目に見える形で子どもが変容していくとき、先生という仕事にやりがいを感じるものです。


子どもの小さな変化に心を砕いています。どうすれば今の現状を打開できるか、そのことばかり考えています。
暗い子どもが明るくなってきた、学習課題を自宅でこなしてくるようになってきたなど、数えればきりがありません。


しかし、それは先生の目に映る変化です。
果たして、そのようなことが一生続くものでしょうか。


中学校に行くと、小学校の時にできたと思うことが崩れていることも多々あります。
あの時は、できていたはずの前向きな姿が変容しています。
子どもたちを取り巻く環境の変化なのか、それとも、指導が不十分であったのか、心を痛めます。


子どもたちが次の学年に進級すると、身についていたはずなのにできなくなっていることがあります。それは本物ではなかったのかと疑念をもちます。
そこに、何とも言えない教育の虚しさを感じることがあります。
ただ、すべてが身についていると思うことは先生の傲慢ですね。


教育という仕事は、その子どもの根っこを育てるものだと考えます。
子どもの環境によって、葉っぱが枯れたり、茎がおれたりするものです。
しかし、大地の中にしっかりとした根がはっているのなら、やがて、大人になっても自分を再生、創造していけるのではないかと考えます。


子どもたちの目先の変化に一喜一憂することがあります。
将来的に社会を乗り越えていけるだけの力となっているのかと問われたら答えられません。
未来になってみないとわからないのでしょう。


かつて5年生に担任した男の子が20代の時に私に手紙をよこしました。
「先生、ぼくは、人生で2度、生まれました。一度は母親からです。2度めは、先生に担任してもらったときです。そのときに、自分の生き方のようなものが見えたように思います」
彼は、優秀な子どもでしたが、大学には進学せずに外国をみてまわりたいという想いが強く、自分でその国で働きながらその土地に住みついて見聞を広めてきたようです。


先日、登山の番組を見ていると、なんと彼が登山家になって出演していました。彼の姿をテレビで見ていると、小学校の時の面影を残していました。
彼は、自分の人生を切り開きたいという願いを叶えていたようです。


教育の仕事は、喜びでありますが、常に、その根底に虚しさと寂しさを伴っています。
そして、いつも、先生がなさっている実践が将来的にどのような力になっていくのかを見極める必要があります。
生きる力とは、今すぐに見えるものではないようです。

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