教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想  168回  まずは子どもありき、教育は臨床

子どもたちに「根性がたりない」とか「今ごろの子どもはやる気がない」などとぼやいたことがありました。
しかし、そのようにぼやいている私自身が「教師根性」があったとは言えません。
自分の理想に合致しないからといって愚痴をこぼすこともありました。
合致しなかったら、教育に対する考え方や方法を思い切って改めたらよかったのです。


他の実践を認めることが難しい時がありました。
他の先生に教えてもらおうということができなかったことがありました。
素直になれなかったのですね。
特に若い時は、そのような私の姿が目立っていました。


初任のとき、子どもは勉強するものだと思って教室に入ったら、そうではないことにシヨックでした。
授業中は静かにするものだと頭から思いこんでいた私は、子どもたちの行動に苛立ちと焦りを覚えました。
私自身の在り方よりも子どもたちを責めました。
「どうしてできないの?」「おかしいじゃない?」と、子どもたちへの責任転嫁したものです。


やがて、「口先の教育は口先だけの子どもを育てる」ことに気づき始めました。
「がんばりなさい」「はあい」
「お年寄りには親切にしなさい」「はあい」
「自分のことは自分でするようにね」「はあい」
子どもたちを言葉で動かそうとしていた私は、新卒3年間で打ち砕かれてしまいました。かなり自信を失いました。
子どもたちの心に映っているのは言葉ではなく、私自身の生き方、人間性そのものであったように感じました。


教育技術や方法にのみ依存していた私が見えてきました。
しかも、貧弱な技術です。
こうすればこうなる、こう指示すれば子どもは動く、子どもは機械の説明書どおりにはいかないものです。
書店に並ぶハウツーものの教育書から少しずつ遠ざかっていきました。
わたしの参考書は、目の前の子どもたちでからです。


そのようなものよりも、「先生が体を張って子どもを見つめ、語りかけること」その迫力が子どもたちの魅力になることに気づきました。
先生が子どもを育てるのではなく、子どもが私を育ててくれたように思いました。


子どもの実態を考慮して教え方に工夫をこらしました。
教室全体の雰囲気を盛り上げることを考えました。
子どもたちの要求を探ってみました。
さらに大切なことは、どのような教育哲学に自分の実践が裏打ちされているかということでした。


まず、子どもありきという思いをしっかりと持つことの大切さを感じました。
そうでないと、教室に、むなしさ、わびしさ、味気なさ、冷たさ、かなしさが充満してきました。


子どもを前にして、私は独り相撲している先生でしかありませんでした。
教材を一方的に指導者の思い込みで流すことも独り相撲ですね。
まず、子どもの事実ありき、興味関心ありき、そして、考え方があります。
教育は臨床です。
理論から子どもを指導するのではなく、子どもの姿を見て技術、方法が浮かびあがってくるものです。
私の問題点は子どもに教えられ修正、矯正されてきました。

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