教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 164回 先生の肩書は役に立たない

「学校の先生の言うことを聞いて、しっかりきたえてもらいなさい」と言われて、親は子どもたちを家から送り出したあのなつかしい日々。先生は、何も言わなくても、「先生」という肩書きだけで、子どもたちを思いのまましつけることができた日々。
先生という看板だけで、親も子どもたちもついてきた時代は遠い昔のことです。


今は、親の学校に対する期待も少なくなり、子供を学校に預けておけば、なんとか子守りをしてくれる無料の保育所ぐらいにしか考えていない親も増えています。


「先生」としての肩書きはあっても権威は小さくなっています。
先生を尊敬している親も子どもたちがいる一方で、学校は、少しずつ4その存在感を失ってきているように思います。
このように言いますと、「いや、それは極端な場合だ」とおしかりを受けるかもしれません。


先生という肩書に権威があると思っているのは、先生だけかもしれません。
子どもは先生の話を聞くものだ、宿題はしてくるものだという、先生の独り善がりだけが一人歩きしています。


子どもたちは、学習は塾ですると思っていますし、ややもすると、学校の勉強よりも塾の勉強の方が面白いと言います。学校から学習をとったら、後は,何が残るのでしょう。掃除と給食当番と係活動ぐらいではないでしょうか。
学校の中にいろいろな人が外部からサポートと称して参加しています。
子どもたちがいろいろな方のサポートを受けることは、学校という閉鎖的な社会開放をするという点において大切なことだと思います。
しかし、最後には、先生、そのもののサポートをする人が現れるたらどうしましょうか。


先生は「みんな仲良くしようね」というけれど、別に仲良くしなくても、家に帰れば、自分を相手してくれるゲ-ムがあります。学校は、あたらずさわらず適当につきあっていけばいいのです。
自分の個性をしっかりだしあってつきあうと、お互いが傷つきあうだけで、何の得もありません。それよりもお互いの個性を知らせない、知ろうとしないようにつきあっていく関係の方が楽なのです。
子ども同士の関係は、深まらないようにするのが楽ですね。


 家庭に目を移してみましょう。
家庭は、子どもを守るだけのところになっています。子どものわがままを通し、至れり尽せりのことをしてあげているのです。
もちろん、このまったく逆の放任も多くなっています。
でも、どちらも、子どもを育てよう、自立させていこうという親の意志はありません。
子どもたちにとって学校は、家庭のように、何かあったら自分を十分に守ってくれないところなのです。
自分の思い通りにならないところなのです。
ゲ-ムのように何度でもリセットできない場所なのです。
徳川綱吉の時代、「お犬様」といって犬が大事にされた、あの時代のように、「子ども様」といってまわりが大事にされています。


将来的に、どのような子どもたちが育っていくのでしょうか。


すみません、これは、私の一方的な感想なのでお許しください。
あてはまらない先生や学校もたくさんあります。
決して、学校、保護者、地域が悪いと言っているのではなく、子どもたちを社会に送り出すために、いかにして自立、自律させていくかを共に考えることが必要だと感じています。
子どもを真中において考え、関わっていく教育実践を大切にしたいと考えています。

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