教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 146回 理科の学習(3) 命の最後まで看取る 植物学習

庭で栽培をしているとき、休憩しながら庭の花を眺めていました。
庭の隅に花が咲かなくなったプランターが目に入りました。
花が咲き誇っているときは、毎日のように見ていたものが、花がなくなってから、毎日見ていないことに気づきました。
種を作り始めていました。葉っぱも下のほうは枯れ始めています。
きっと人間でいえば、高齢者なのだろうと思いました。
人間の目から離れてしまった草花、それでも命は続いています。


私は、庭の枯れかけているプランターを集めて、枯れていたり乱れていたりする葉を丁寧に切り取りました。
散髪です。すっきりしたようです。
花も発芽してたから老化まで命を刻み続けています。
そして、難しいのは、いつ、花のプランターを終わりにするかということです。いつも迷っています。
花も自分の醜くなった姿は好まないだろうと考えれば、片づけることがある一方で、まだ、もう少し頑張って生きていたという花があれば、もう少し見守ることにします。
若い時に比べて、私は、見守ることのほうが多くなりました。


さて、理科の学習の話をします。
理科の植物教材には、アサガオ、ひまわり、マリーゴールド、インゲンマメ、ひょうたんやへちま、ゴーヤなどいろいろあります。
その教材の扱い方を見ていると、花や実に重点がおかれています。
花を育てる? 実を育てる? 命を育てるのであれば、生まれてから死を迎えるまでですね。


「種をまく」一年生にアサガオの赤ちゃんだよというと、とてもていねいに種を土の中に入れます。
土の中に埋めるということは、その土を持ち上げて土の上に顔を出す必要があります。
「発芽」はとてもドラマチックです。
「一番最初に芽をだすのを見つけるのはだれかな」と子どもたちに競争させます。
発芽は、葉の先から顔をだしません。
葉を痛めることのないように、背中をまげてあがってきます。
この様子を子どもたちが見つけたら感動します。
生きているものの知恵ですね。


やがて、葉を広げ茎を伸ばします。
葉のつきかた、成長の仕方など、陽光を取り入れるための工夫をします。
葉を上から見ると、ほとんど重なり合っていません。
やがて花を咲かせます。


しかし、花を咲かせるのは、子孫をつくるためです。「最後に花を咲かせよう」ということがありますが、花の一番美しい時であり、それは、やがてやってくる死を意味します。


子どもたちには、その全過程にしっかりと寄り添えるように指導したいものです。
そうでないと、実ができた、花が咲いたということで終わってしまいます。
学習園や教室でエネルギーを落としていく植物たちは寂しそうですね。
命の教育は別にとってつけることはいらないです。
動植物に寄り添って世話を続けていけば、自然に子どもたちは命の過程を体の中に浸透させます。


「一年を通していろいろな植物を育てよう」生活科から高学年に至るまでの基本的な活動です。
教室に枯れかけた草花が植木鉢から垂れ下がっています。
まだ、生きているのです。その様子こそ、子どもたちと命について考えるチャンスであると思います。
各学校の学習園で枯れてしまった植物を見ると、先生にも子どもたちにも忘れられてしまったことが寂しく思えます。

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