教育随想 1107回 出力と入力 授業者
子どもたちを指導していると、指導に疲れてしまうことがある。
これだけ一生懸命説明しているのに。
あれだけ指示をだしておいたのに。
指導者の血圧が上がっても、子どもは平然としている。
いらいら、悔しい、どうしてどうしてと自問自答するばかり。
出力はあっても入力がない状態。
教育効果が上がれば、子どもが変容すれば、それなりの喜びが生まれる。
出力しても入力があれば疲れにくい。
高校野球で、激しい練習(出力)をしても、優勝すれば喜びや快感(入力)を味わう。
だから、また頑張ろう(出力)と意欲をもつ。
掃除は体を動かせば動かすほど床がきれいなる。
掃除をすることは出力であるが、美しくなった床をみると清々しい気持ちが入力となって戻ってくる。
花や野菜に自分の時間をかけることが、やがて、豊かな実り(入力)となってかえってくる。
楽しませてくれる花々を眺めると、出力のかいがあったと思う。
出力が入力に変換されている。
やればやるほど自分の中に入ってくるもの。
授業も同じである。
授業の前と後の自分を比べる。
出力以上に入力をもらっただろうか。
授業が終わって退室するとき、疲れていることがある。
反面、子どもたちからいろいろな発見をもらうことがある。
授業の大きな楽しみである。
自分の想いをつれづれなるままに書いている私。
自分の考えや気持ちを文字に乗せてノートに叩きつけることで、跳ね返ってくるものがある。
だから、書くこと(出力)を厭わない。
学校の仕事が一日終わったとき、どれだけの入力があっただろうかと自省する日々。
明日、あらたな出力をもって試みようとする。
その繰り返しが授業者である。