教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1108回  卒業文集は 時間の無駄?

学校行事、教育活動において、無駄、無意味だから止めよう。
運動会、入場の駆け足は無駄だから、直接演技の場に集合させる。
駆け足で入場する意義は考えない。
とにかく時間のむだだという。


今までの学校行事のあり方を検討するのは大切です。
しかし、合理的判断として決定しているところがあります。
無駄である」としいう言葉が職員会議で聞かれるそうです。
もちろん、ある学校の話であって、すべてではありません。


ラジオ体操、最初に準備運動をしても演技までは座って待つ。
その間の時間がないからやめよう。
国民的な体操文化としてのラジオ体操。
職場においてもラジオ体操を実施しているところがあります。


職員間の話し合いをうかがうと、少しでも楽をしたいために、今まで行われていたものを否定しています。
否定するなら、今の子どもにあった内容を創造すべきです。
働き方改革のもとに、労働時間を減らすことだけに視点が当てられています。


先日、卒業文集をつくらないという学校が増えているとのこと。
その理由が
作成にかかる長い時間と手間が大変である。
子どもの作文能力が落ちてきているので指導が難しい。
作文内容に対して保護者からのクレームがかかることがある。


確かに卒業文集を作成するには時間がかかります。
しかし、その意義を指導者がどこに置くかによって違ってきます。
時間がかかるから、時間がかかってもそれだけの意義があるなら必要です。
ただ、そこに、先生の教育にかかる手間を省きたいという意図を感じます。


「子どもの作文能力が落ちているから」
この理由に対しては、私は疑問に思います。
能力を育てられなかった責任者は先生です。
六年間の作文指導の結果、その集大成としての文集です。
作文指導を系統的に指導してこなかった結果です。


ただ、作文指導の時間の確保が難しい。
相当、各教科のなかで「書く」ことのねらいをもってしないとと効果はない。


私は、卒業文章が必要であるとも必要ないとも思わないです。
その時の子どもたちをさらに飛躍(能力・意欲)させることができるならやればいい。


ただ、問題なのは、卒業文章の意義を検証していないことです。
止める明確な根拠を必要とします。
続ける意義を確認する作業が行われていないです。


学校行事は歴史的に引き継がれてきた文化です。
その文化を旧いというだけで廃止してはならないと思います。
今の子どもたち、未来の子どもたちにとって、本当に必要のないものかを考えることです。


今までの先輩諸氏が培ってきた理念と意義があるはずです。
そのことを検討してから廃止すべきですね。

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