教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1103回  言葉  伝えきれない気持ち

言葉は便利であることには変わりない。
少なくとも作業・伝言などの要件を伝えるためには有効である。
言葉は道具であり手段であり目的ではない。


要件を伝えたり指図をしたりする場合において有効である。
しかし、気持ち、心の奥にあるものを伝えるには限界がある。


言葉は心の湖を掬い取る柄杓のようなものである。
湖のすべての水を代表しているわけではない。
気持ちを言葉として表現しようとすると、言葉から零れ落ちる気持ちの方が多い。
言葉はじれったくもどかしい。
いや、ほとんど表現できていないだろうなあ。


「ありがとう」というお礼の言葉。
その言葉が口から発せられた時、相手も私もお礼を伝えていることはわかる。
記号としてわかるという程度である。
人同士をつなげる言葉として重宝する言葉である。
メールにおける文字言語は、伝達のための合理的な記号であるがすでに限界がある。
それに比べて、音声言語は、その表現の仕方において、お互いの気持ちの微妙なニュアンスは伝わる。


そうであっても「ありがとう」という言葉は感謝のすべてを伝えきれていない。
むしろ、その言葉を発することで簡単に済ませてしまう。
省エネ言葉かもしれない。


ありがとう、ごめんなさいはその代表である。
言葉さえ使っておけばいいというものである。


言葉だけでなく、まなざし・表情・身体表現によって、より豊かに相手に伝えることができる。
しかし、メールはそのことが難しい。
言葉は記号化してしまっている。
顔文字を使ってもそれは既製品の顔である。


文字表現の「ありがとう」では伝わるものはほんの少しである。
胸が熱くなりました、ありがとう。
胸の高まりを覚えました、ありがとう。
ありがとう、本当にありがとう。
ありがとう、とてもうれしいです。
言葉を添える、気持ちを添えることが必要である。
しかし、それでも言い尽くせない言葉。
ありがとうを言いなさいと子どもに対する親の指示。
そうして育てられた言葉は、すでに死んでいる。


愛の言葉
愛そのものに実態はない。
愛は気持ちを誇張する。
愛の言葉は粉飾言葉である。


相手を喜ばす言葉である。
伝える側の自己満足言葉である。
気持ちがこみあげるとき、ほんの少し漏れ出る愛の言葉。
言葉で伝わらいことがわかっているのに発する。
目に見えないものを目に見えないまま発する愛の言葉。


愛は言葉よりも言葉で表現できないところにこそ真実がある。
しかし、本当に真実なのか。
真実を示すところのものがわかっていないのに

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