教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1099回 子供が突然暴力的に 先生の常識でとらえない

先生方の会話のなかで
「常識では考えられない、あの子の行動は」
「子どもの様子を見守っていたが、まさかこうなるとは思えない」
このようなことを口にしているのをしばしば聞いてきました。


常識では考えられない行動、その常識とは誰の常識でしょうか。
あなたの常識ですか、同僚の中での常識ですか、それとも学校全体での常識ですか。
「健全な社会人が普通に持っている知識、判断力」(辞書)
私たちは、このあいまいな定義に基づいて、
「あなたには常識がない」
「その行為は常識でしょ」
「あの事件は常識では考えられない」


「常識でしょ」という名のもとに、個人の考えを相手に押しつけていることがあります。
教育の場合も同じです。
いじめや暴力事件があると、「常識では考えられない」「まさかそうなるとは思ってもみなかった」と言われます。
世間では、事故や事件に対して「想定外」という言葉で締めくくってしまいます。


子どもが突然暴力的になったとき、それは、指導者としてすべてを受け入れることです。
先生が想定していなかっただけ、想定する努力を怠っただけかもしれません。
少なくとも指導者、当事者はそのように考える必要があります。
子どもの事件を家庭や地域の環境に片寄ることなく見据えることです。


指導者の常識基準は、個人の人生体験や学習体験、さらに、教育書からのものではないでしょうか。
しかし、そこに忘れてはいけないのは、指導者として子どもたちを見守り続ける努力も観察する努力をおこたっていたのではないかという問いを自らに投げかけることです。
そうなると自分自身の反省ぱかりが見えてきます。


子どもの問題に対して問いを発することは、即、自分の指導者としての自分を振り返ることにすぎません。
つらいですが逃げるわけにはいきません。
それが先生の良心ではないですか
私は、反省ばかりでしたね。


学校学級のなかで起こったことは、そのなかにいる先生の関与からです。
先日、ある中学校でいじめがあった事件がありました。
保護者がそのいじめを学校をとびこえて警察に相談したそうです。
それを聞いた中学の校長の言葉
「事件が警察に移っているので、学校としては特に対処できるものではありません。」
どうして、学校でおきた事件を学校が放棄するのでしょうか。
まるで他人事です。

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