教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 963回 教科書は教えても 教科書で教えられない

授業前の準備で、指導書を見ながら教科書に手順を細かく書き留めておられる先生。
教科書に指導例が書かれている「赤本」を手にされている先生。
指導書さえあれば、先生でなくても誰にでも教えられるのではという外部の声。


教科書は、指導者と子供との接点である。
教科書をを介して、先生と子供とが交流する。
教科書は教える内容の枠組みである。
誰もが共通して教える内容が教科書である。


ところが教科書で教えるとなると、それぞれの先生の授業のあり方が異なる。
2年生にかけ算の九九を教える算数の学習がある。
九九の仕組みを理解させて、あとは反復練習が行われる。
どの先生も教える内容が明確で学習指導がしやすい。


しかし、教科書で教えるとなると、そこに「九九を通してどのような子供、集団を育てたいのか」という視点を入れる必要がある。
「九九を通して粘り強さを育てたい」ならぱ、独り学習の場面を多くする。
2から5段までのやさしいから九九から難しい九九の段に挑戦させる。
易しさから難しさへの移動である。
逆に、もっと難しい壁をもってきて(たとえば7の段)独りで苦労する場面を臆することもある。
さらには、どの段の九九から覚えるかを子供一人ひとりに任せてみるとおもしろい。
子供の意欲を優先させるからだ。


子供同士が支えあって習得できる(集団援助)ためには、班学習に任せる。
班で「協力して2の段をみんなが言えるようにしてみよう」という課題をだす。
どのような集団を育てるかによって班学習の仕方は変わる。


九九を覚えることは、九九は覚えにくいという前提がある。
だから、簡単な段からスタートするねらいがある。
あえて、難しい段から始めるねらいもある。
学習指導の効率化だけでなく、逆に非効率にすることで、子供たちに育てたい力が変わってくる。


教科書でどのような子供を育てたいのかを考えるのが教育指導ではないか。(学習指導から教育指導へ)

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