教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 959回 カメラの活用が子供の観察力を駄目にする

自然豊な公園に中学年ぐらいの子供たちがやってきた。
一人ひとりの子供たちの手にはカメラが持たされている。
子供たちが自然をカメラにおさめる勉強だとわかる。
先生は、子供たちの前にたってかっこよく指導してされている。
大きく通る声で子供たちに自然観察の仕方を教えていた。


私は、どうして現場で指導するのか不思議であった。
教室で指導すべきことである。(再度確認したのだろうが)
そして、子供たちを解散させる前に強く言った言葉には驚かさた。
周りの観光客にわかるような大きな声で伝えた。


「自然を撮影しても人をとってはいけません。」
子供たちが撮影するかもしれないという不安があるのだろう。
だから、もし、撮影することがあっても、周りの人々に言い訳ができるようにされていると感じた。
教室で指導すべきことである。
この場面で不思議だったのは、観察する前の子供たちにやるぞという意欲がみられないことである。
やたらに、先生の管理する声だけが強かった。


さて、IT教育が取り入れられてカメラの映像で学習することが増えている。
子供たちは、カメラで自然観察したことを映像に残すことができる。
ただ、本当に自然をたのしんでいるかは疑問である。
カメラを操作することを楽しんでいるようにも見える。


子供たちは、自然、木々や草花、鳥などにカメラを向けている。
ところが、子供たちは、対象となる観察物をよく見ていない。
観察する前に、対象物にカメラを向けている。
説明的な構図で写真をとる。


子供たち一人ひとりの自然に対する感動がない。
観察対象の前に佇んで、じっくりと観ることが少ない。
花であれば、花のどこに心を動かされているのか。
どこに興味関心があるのか。
カメラは、子供の感動を表現するものでなければならない。
植物図鑑をつくるのではない。


自然観察している子供たちの声。
「この花、おもしろいよ。一応とっておこうよ」
「あそこの木のかたちもおもしろいからとろうよ」


社会見学の時も同じである。
何をとっておきたいのか。
どこに心が惹かれたのか。
何に疑問をもったのか。


観察は対象に対して感動するまで写真をとらない。
いいなあ、すごいなあ、不思議だなあと感じるまでカメラを向けない。
これぐらいは、条件として提示すべきである。

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