教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 960回 右見て 左見て 進め

学校行事をいつにするかを決めるとき、近隣の学校はどうしているかを調べることがある。
コロナ状況にあっては、自分の学校よりも周りの学校の対策が気になる。
みんなで揃えるほうがいいこともあるからだ。
学校独自で走りださないほうが、あとで、世間の批判をかうことはない。


保護者は、自分以外の学校情報に敏感である。
だから、学校は子供たちよりも保護者対策を気にしている。
一件のアンケート、一本の電話が学校運営を動かすこともある。
学校は「右見て 左見て 進め」で動いている。
いや、「右見て 左見て 止まれ」になることもある。
もちろん、校長先生によっては、自校の子供たちを見て学校運営されている方もいる。


担任も含めて教員も「右見て 左見て 進め」になっていることである。
「私は、違います」という先生もおられます。
私は、新任で4年生の担任に配属された。
学年は4クラスであった。
世話係の最初の言葉。
「学習の指導の仕方、しつけの仕方、掲示物もすべてそろえましょうね」と言われたことが印象的であった。
そんなことできるわけがない、子供も指導する先生も違うのに。


極端な例ではある。
しかし、学級経営を一律に揃えることで、右見て 左見て 進め
る体制ができあがる。
新しい学年になると、職員室では、前に使ったプリントの交換が始まる。
それを参考にして、新たなワークシートを作ることができる。
学級間の特色は、先生の指導のあり方である。
教科目標は同じであっても、そこに至る指導過程は異なる。
その独自性を参考にしあうことが教員の切磋琢磨だと思うのだが。


若い先生が意欲を失ったりつぶれたりしていく様子を見ると、学年の中での個性が生かされずに統制されている雰囲気があるように思う。
お互いの指導案や授業を見せあうという雰囲気は少ない。


まず、自分のしたいことを見て、それから右見て 左見て 自分の実践を前に進めていくことが大切ではないだろうか。
今、教育委員会は、先生たちの協働性をさかんにうたっている。
協働する内容が問題なのだが・・・。

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