教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 950回  実践は 自由自在 常に指導者は変数

先日、ある先生に実践記録を書くことを求めた。
ところが、実践の内容がすぐに思い出せない。
言葉となってあがってこない。
それは、すでに実践がないからだ。
ただの通りすがりの思い出にすぎない
体験、経験として見聞したことがあるだけである。


実践は、子供の事実、子供の未熟さ、問題行動から始まる。
そこから「育てたい」「変容させたい」という願いが生まれる。
何を育てたいかが実践目標になる。
さらに、どのようにして達成するかを考える。
指導方法と手順である。
指導方法は、相手の子供によって常に修正される。


実践は自由自在である。
指導者が目標達成に固執すれば指導に柔軟性を失う。
子供の実態によって目標を下げることもある。
実践は、そのプロセスにおいて修正を余儀なくされる。
目標と方法の修正である。


実践が楽しいのは、子供という変数を相手にするからである。
動いている標的をねらうようなものである。
子供の心や環境が刻々と変わるなかでの実践である。


目標をたてても用意に達成されないところに教育の困難さがある。
物は壊れてもマニュアルどおりの方法で直すことができる。
人間は違う。
子供は常に刹那的であり動いている
刹那的とは「その瞬間の感覚・生活を充実させて生きる」ことである。
刹那的な子供たちには、しばしば裏切られる。
子供の思いが刻々と変わるからである。
実践がうまくいかないことが、そのまま指導者の反省になる。
目標⇒実践⇒結果のずれ⇒反省⇒あらたな目標設定


不登校の子供を登校できるようにしたという実践例を見かける。
登校したとしても、本当の理由はわからない。
先生は、そのきっかけを与えたにすぎない。
だから、先生の指導の結果だとは言い切れない。
指導の結果だとするところに先生の傲慢さが見える。

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