教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 948回 子供の心をひきつける 怒らない 怒れない

先日、旅行で遠出したときのこと。
ホテルに宿泊した時、修学旅行生の団体と出会った。
子供たちは、ロビーで楽しそうに会話を楽しんでいた。
ロビーいっぱいに広がった学生のため、通行に支障をきたしていた。
私たち夫婦も人混みをかき分けるようにして移動した。


その時に、集団のどこからともなく「お客さんが通るから邪魔にならないようにしなさい」という指示が耳に入った。
おそらく引率の先生だろうが、その姿がわからない。
中学生の団体なので、その中に先生の姿が埋没していた。
一人の先生は、学生たちと雑談していた。
自分も学生と一緒になって大きな声で話していた。
その服装も態度の周りの学生と変わらなかった。


最近よく見かけるのは「友達感覚」の先生である。
気持ちはわかるがどこか無理がある。
フレンドリーに接して子供たちとの距離を縮めたいという気持ちはわかる。
しかし、それは大切な側面であって主たる態度ではない。


先生は指導者である。
導き教え、諭す役割をもつ人である。
子供たちよりも一段高い位置に立たなければならない人間である。
先生は友達ではない。
指導者であるという自覚が感じられなかった場面であった。


子供の行為は先生の指導者としての実践結果である。
目の前の子供たちを見れば、先生の能力がわかってくる。
先生は、少なくとも子供たちの行動に責任をもたなくてはならない。
子供たちや学級集団に努力を惜しまない姿勢を大切にしたい。


子供たちよりも少し高い位置に立つことで子供たちの姿を俯瞰できる。
逆に、子供たちからは、先生の姿は丸見えである。
服装、身だしなみ、言動はいうまでもない。
いつも端正な服装を持ち味にする。
華美にならぬ程度に清潔さに心がける。
いつでも子供たちの指導者であるという地位を脳裏に刻む。


こんなことを言うと、堅苦しさを感じられる先生もいるだろう。
しかし、医者は医者としての自覚からそこに風格が生まれる。
教師もしかりである。
先生がただのお兄さんお姉さんでは子供にとって魅力が薄い。


子供は自分を育て導く人を「ぼくの先生、わたしの先生」と呼ぶ。


ところが、先生として一段高いところに立つと、子供たちから丸見えなことがある
それは先生が感情的になることである。
子供たちは、先生の怒らない、怒れないの区別を非常に素早くキャッチする。


新しい先生は、すぐに感情的になって怒る人か、それとも、怒りたくてもじっと我慢している人かを見抜く。


ところが我慢している先生に子供たちはテストをしかけてくる。
先生が怒らないことに疑念をもつ。

そこで先生を怒らせようと罠をしかけてくる。(マイナス行動の罠)
これに合格して初めて子供たちは、先生に心を拓く構えを見せるようになる。


それでは、怒らないのがいいのかと言うとそうではない。
しかし、そうはいっても、つい感情的になることはある。
それはそれで先生修行の過程であるから仕方がない。


感情的にならずに子供の行動を否定することも必要である。
子供に迎合すると、子供は先生を低く見るようになる。
態度は怒らなくても、がっかりした様子、けいべつした様子、まだ子供なんだという幼児に接するような態度等を、必要に応じて見せることである。


先生の子供の行為の否定から、子供たちが自分に対する良くなってほしいという願い、期待であると受け取れるようにする。


先生という仕事は、「指導者」と「自分という人間」の間を行き来する存在である。
指導者になるのは難しい。
人間的な欲望もある。(虚栄心)
だから、指導者と自分との間で悩み苦しむ姿が教育者ではないか。

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