教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 869回  義務教育で子どもを集めてどうする?

今、学校現場は目的を失っている。
教育、義務教育とは何か、どの方向に進むべきかという点が希薄である。
現場の先生のお話を伺っても、日々の問題に対応するだけで忙しい。
管理職の日々、世間の目を気にして運営していることが多い。
担任の先生の問題行動や発言に神経をすり減らしている。
悪く言えば、その場限りの仕事になっている。
もちろん、そうではない学校も多いことは知っている。
しかしながら、子どもをどのように育てるという視点が希薄になっている。
ここで、もう一度、文科省の義務教育の目的をあげた文を見直そう。


義務教育の目的(文部科学省より)に基づいて考える。
「義務教育は欧米の発想で,教育が庶民にまで行きわたっていなかった時代に,国の力でどの子どもも学校に行くことを保障しようというもの。社会が豊かになった現在,その概念を考え直すことが必要だが,その際も」
「国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成」(社会の統一性・水準維持)」
※教育が国家社会の構成となる子どもたちの資質を育てるという点が明確にされている。人間の集団を維持するための資質の要請である。
学校に義務として子どもを集める大きな意義はここにある。単なるお稽古事ではなく、社会の一員としての能力を育てることに目的をおいている。


義務教育の意義は,
「国として,国民としての統一性や水準の維持」
「多様な変化の時代に生きていく子どもたち一人一人の個性や特性の基礎づくりの2点。」
※日本国民が集団として生きる力を育て、その水準を維持することが学校教育の大切な意義 である。
※その一方で、多様な変化の私大を生きるという前提のもとに、子どもたち一人一人の個性や能力に寄り添って育てることをめざしている。


義務教育においては,
社会の良き形成者を育てるという「社会の側からの教育」と,人生をより良く生きるための土台をつくるという「個人の側からの教育」の両方のバランスが重要。
協同的な集団を育成することと個人の個性を育てることの両面を大切にする。違う言葉におきかえると
「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間を育てることが必要。」


「義務教育には,「国家として,あるいは国民としての統一を目指す」という側面と,「子どもや学校の持ち味,個性,独自性を育てる基礎づくり」という側面とがあり,この両者をバランスよく維持していくことが重要であり使命である。」
「義務教育の目的とは,「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり,社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは,「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にするもの。」


どうでしょうか。
誰とでも、どこでも、それなりに個人の個性を発揮して生き抜いていける子どもたちを育てることが義務教育としての学校の目的ではないですか。


今の学校教育は、集団も個人も希薄になっている。
その場を楽しく明るく過ごせる子であればよしという安易な考えに陥っていないでしょうか。
さらに、先生方は、今日が問題なく無事に過ごせたらよいという気持ちになることがあるでしょう。
がんばりたいものですね。
先生は子どもあっての先生です。
子供が登校してくれての先生です。
子供がこなくなったら先生は失業です。


義務教育は、学校、先生が子どもたちを招集しているのです。
学校教育の主体は、本当のところ子どもではなく先生です。
先生が主体的にならずしてどうして子どもたちが主体的になれるのでしょう

×

非ログインユーザーとして返信する