教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想  857回  啐啄同時(そったくどうじ)

教育の場において、子どもをほめることは、子どもを育てる一つの指導法
としてよく用いられている。
ほめることで子どもの学びの意欲が大きくなることがある。
ほめることで認められたという子どもの安心感を育てることがある。
ほめることで子どもを委縮させることなく育てることができることがある。


「ことがある。とすべての事例を肯定することはできない。
そうでない場合もあるからだ。
すべてを肯定すると「叱る」ことがマイナスになってしまう。
「ほめる」ことに偏ることなく、「しかる」ことに偏ることなく、「ほめる」と「しかる」の間で指導することが大切である。


ほめることよりも「何をほめる」「ほめられている」かである。
子どもが本当に認めてほしい、わかってほしいことをほめる。
子どもにその気もちがない時にほめるのは「余計なお世話」になることがある。


禅の言葉で「啐啄同時」(そったくどうじ)がある。
「鳥のひなが卵から生まれ出ようとする殻の中から殻をつついて音を立てた時それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすること。」
互いが響き合った時、新しい何かが生まれるということである。
これは、先生の子どもに対する応答力の大切さを示唆している。
子どもの求めているものに即座に応じることの大切さを語っている。


この啐啄同時のタイミングはとても難しい。
子どもの様子から、今、何を求めているかを察知することは難しい。
想像することはできるが、外れることもある。
だからこそ、子ども一人ひとりから目を離せないことになる。
子どもが殻を中から音をたてていることに気付けないことがある。
授業は、まさに、啐啄同時の連続である。
指導者のすばやい動き、応答力が問われる。

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