教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 823回  高学年における集団思考 無批判の原理

高学年の子どもが自分より下位の学年と遊んでいるのを見ると、リーダ―格を努めていることが多い。
委員会やクラブ活動の様子を見ると、委員長や部長という役職(与えられた役職)でまわりを動かしている。


それとは反対に、子どもは「おにいさん・おねえさん」的な感覚で周囲の子らに接している。
役割で演じる自分(役職)と仲間に自ら溶け込む(おにいさん・おねえさん)自分の両面を持っている。


他人と自分との違いを意識することが強くなっていく。
結果的には、大人(先生・親)や社会に対する希望や批判を抱くようになる。
このような高学年の子どもを指導する時、次のような留意点がある。


無批判の原理
子どもたちの知的水準が高まると、物事を論理的に考える傾向がある。
だから、論理的でない考えは無視されたり冷笑されたりする。
そこで、論理的な考えがいつも正しいとは限らない側面の指導が必要である。


学習においては、論理的な思考によって話し合いが行われている。
しかし、時々、子どもの中に論理から逸脱した考え、奇想天外な考えを出す子どもがいる。
そのような考えは、先生も子どもたちも無視することが多い。


ところが、問題解決に際しては、奇想天外な考え方が解決の糸口になることも稀ではない。
子どもたちには、そのような考えが提出されても批判しないという原則を守らせる。(無批判の原理)
集団思考の場は、参加する子どもの数だけの考えが埋もれている。
その考えが論理的でなくても、直観的、感覚的であっても認める。
いや、そのような意見のほうが、問題を広げやすいものである。


ここで注意したいのは、集団思考が個々の子どもに制約と我慢を強いる場ではあってならない。
自分の考えを押さえて、まわりの考えに同調させるようでは集団思考とは言えない。
集団思考は、もっと混沌としている。
その多様性をすり合わせる場が集団思考である。

したがって、結論は一つとは言えない。
複数あってしかるべきである。
集団のための思考ではなく、個人の考えを広げ深める場であることを忘れてはならない。
さもないと、集団主義に陥ることになる。

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