教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 808回 専科担当の授業 導入とクライマックス

前回に続いて、専科を担当した場合の授業について。
専科の授業では、違った学級、ふだんは交流がない子どもたちの前に立つ。
子どもたちが先生に求めているものは、教科学習がおもしろいかどうかである。
当然、子どもたちは普段の担任の授業と比較しながら学習する。


専科担任は、最初に自己紹介をしたり、授業のたびに笑いを入れようとしたりする。
子どもにとって、先生がどのような人かは興味がない。
いや、先生の人間的な部分を紹介しておくほうがいいのではという気持ちもあるが無意味である。
先生が授業者として、学習を指導すれば、先生の人間性は一目瞭然なのである。


子どもの理解を意識し、結果を確かめながら学ばせる気配りを子どもたちは感じとる。
指導者の話し方は、担任として授業する時よりもゆっくりと話し、間合にも気配る。
先生方の中には、ギャグを連発して子どもたちを笑わせる方がいる。
それは、学習指導とは何ら関係ないことである
先生はコメディアンではなく、学びをリードする支援者である。


授業を準備する時に、事前に考えておくことがある。
一つめは、学習目標のゴールラインを明確にしておき、その時間の山場、クライマックスをどこにもってくるかである。
クライマックスとは、子どもたちの思考が最も高まり、学習目標に到達するために越えなければならない学習内容である。
学習指導において、最も難しい内容の部分であるともいえる。
「そうだったのか」「やっとわかったよ」「本当にできるようになったよ」
毎回、新しい子どもを違った山のてっぺんに導くと考える。
どこが子どもにとって苦しいか、難関となるかを考える。


二つめは、導入の5分間で子ども全員に興味関心を起こさせる。
学習のどこから入るかは極めて重要である。
登山の入り口まで引率する場面である。
登りたくない子も入口までは連れて行かなくてはならない。


これらの二つのことは、学級担任の授業でも大切なことである。
専科担当の場合、教材、学習指導のみで子どもを魅了する時に必要な事前の準備である。
5分間の導入とクライマックス、これは、授業者にとって基本的なことである。

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