教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 785回  気遣い、気配り わかっていても

対話する時、自分だけが勝手にしゃべっていることがあります。
反対に、相手の想いに気配りしながら寄り添って聞くこともあります。
自分だけが一方的に話すのは対話ではないです。


対話するとき、相手の感じ方、考え方を理解しながら話します。
気遣いながら、気配りしながら話します。
多くのお店、客を相手にする所は、気遣いをサービスとしています。


先日、久しぶりに散髪に行きました。
散髪とはいっても、低料金で頭をすっきりさせてくれるお店。
私の残り少ない髪の毛も時間がたつとうっとうしくなります。
毛量の多少によって、料金も段階的に変わればいいのにと思うことがあります。
ちなみに、私の髪の調髪は5分もかからない。
居眠りの時間なし。
昔は、うとうとする時間があり、リラックスしていました。


さて、今回は、理容師の話。
私の担当者は、明るく対応してくれました。
私が刈り上げるようにお願いすると、自分で髪を染められる長さにするかどうか聞いてくれます。
この部分はこの程度でいいか、手を止めながらたずねてくれます。
少ない髪の毛では工夫の余地もないと思うのですが。(申し訳ない)
私が行く店は、流れ作業で行われるなかにあって、この理容師さんの心遣いが妙に心地よいものです。
サービスとは気配り、気遣いなのだと改めて思います。


髭剃りは担当が交代しました。
いきなり椅子を倒される。
顔に熱いタオルがおかれる。
「熱くないですか」とは聞いてくれない。
その理容師さんの顔には、ほとんど柔和な表情がない。
髭剃りも雑である。
髪はなくてもひげはある私にとっては、もう少し丁寧に剃ってほしいと密かに思うのですが・・・。
終わったら、終了の合図なしに、椅子が無造作におこされる。
前の理容師さんと比べて、その気遣いの違いを感じないではおれなかったてです。


先生の子どもたちに対する接し方も同じ。
無造作に相手を傷つける、配慮に欠ける言葉かけをすることがあります。
子どもの気持ちに寄り添わないで、先生の勝手な、一方的な思いだけで指導されることもあるでしょう。
散髪は理容師に委ねるしかないのと同じく、子どもたちにとって、教育的指導も先生に任すしかありません。
子どもは、先生の指導に不安を感じたり、冷たさを感じたりしても任せるしかないのです。


このようにいうと、先生も人間だから至らないこともあると言われます。
その通りです。
人間同士が理解し合うことはほとんど不可能に近いです。
子どもの気持ちがわかったような気にはなれます。
でも、ほんの一部のことです。


実際のところ、どれだけ多くの子どもたちを傷つけてきたことでしょう。(懺悔)
子どもに寄り添って気遣う姿勢を持ち続けることが先生の務めです。
誤解と反省、そして、さらに働きかけの繰り返しが先生の仕事だと考えます。


教育は、自己理解、自己反省、自己深化の連続ですね。
そうしているうち退職を迎えます。
その時に子どもはいなくなりますが、私自身の生き方、姿勢は生涯において継続します。
子どもたちのおかげです。

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