教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 776回 子どもにとってつらい 先生の指示(言葉)

「まず、聞かせなければならない」という先生の意思。
「まず、聞かなければならない」という子どもの必要感。
この両方があってこそ、学習は成立する。


最も気になるのが、子どもが手遊びしていても平気で話を進める。
これは、先生の話は聞かなくてもよいというメッセージを送っていることになる。
子どもたちが隣の友だちと話していても、先生は見て見ぬふりをして話す。
先生自身が子どもたちをだめにしている例である。


「さあ、みんなこちらを向いて先生の話を聞きなさい」
そして、話しだすと退屈で要領を得ない話の内容。
子どもは耳も心も閉じてしまっている。
先生は、自分の話し方について、常に、自己研鑽する。
テレビのニュースやアナウンサーの言葉に関心をもつ。
特に、災害や事故で、急に現場で状況を伝えるアナウンサーの言葉はおもしろい。
アナウンサーの能力差が表れる場面である。
それを批判するのではなく、自分のこととして考える。
自分だったら、どのような言葉を使って実況するかを考える。


「教科書をだしなさい。」「今日、勉強するところを開きなさい」
「鉛筆をだしなさい」・・・
このような指示は、すぐに本時の学習に入ってしまえば不要である。
さらには、先生の指示が具体的でないために、子どもたちの意欲が遠ざかっていく。


例1 子どもが学習につまずいている時
よく考えたらわかるよ」と先生の助言。
考えてもわからない子どもに「よく考えたら・・・」と助言しても子どもは困惑する。
先生がつまずきの原因を見つける。
そして、具体的に、どのように考えたらいいかを助言する。
これに類する発言に
「もっと考えなさい」「ちゃんと考えなさい」


例2 「少しでもわかった人は手をあげて
  子どもたちに少しでも発言してほしいという気持ちはわかる。
  しかし、子どもたちはどうか。
  少しでもわかったということは、わからない部分の方が多いということ。
  これで挙手できるだろうか。



「わかりましたか」と先生がたずねて「わかりません」と言える子が何人
いるだろうか。
「わかりましたか」は禁句である。
その言葉を使わないで、子どもたちのしぐさや表情からわからなさを察知できるようにする。
ちなみに、私は「わかりましたか」という言葉を使わないで授業実践してきた。
私の師匠から指導されたことである。


先生が子どもに話を聞かせるようにするには
① センテンスの短い言葉
② 子どもに安心感を与える落ち着いた声。(声を張り上げない)
ご自分の声がとなりのとなりまで聞こえていなだろうか。
③ 不要な言葉をださないことによって切実感を与える。


発問の要点は、単純、明快、的確、一回きりである。

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