教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 775回  ほめるとしかるの間で 子どもを指導

「ほめる」と「しかる」は、子どもたちを指導する上で必要な時がある。
子どもたちは頑張ったことをほめられるとうれしい。
子どもたちがよくないことをして叱られると子どもはうれしくないという。。


叱られる時、誰に、どのようなタイミングで、どのように叱られるかによって、子どもの受け取り方は異なる。
親しくない時に叱られると、子どもは反発する。
何カ月かたち、子どもが先生を尊敬し始めると、叱られることも心地良いらしい。


ほめる時、その基準は難しい。
どの子にもあてはまる基準はあるが、個々によって違うことのほうが多い。
実は、ほめることはしかることよりも難しいことがある。
ほめることは、子どもにとって相手から受け入れられることである。


ほめたからよい、しかったから悪いと一律的にいえない。
子どもたちに2週間の期間をおいて、自分が褒められた回数と叱られた回数を記録させるといい。
子どもたちは、ほめられる数が増えると喜ぶ。
しかられる数をできるだけ減らそうとする。
ほめられる数としかられる数が同じぐらいの子どもいる。


さて、この記録は先生にとっての指導の反省になる。
しかったつもりはないのに「しかられた」とする子ども。
ほめたはずなのに「ほめられた」と思わない子ども。
その受け取り方が子どもによってまちまちであるところがおもしろい。


私が伝えたいことは、これからである。
ほめる、しかるだけで子どもを刺激することには問題がでてくる。
育つ子どもに他人に迎合するような気風を助長している面がある。
すでに子どもたちは他人(学校では先生、家では親)の基準に縛られている。
勉強への努力、決まりの順守に関心があるのではなく、だれかの評価を得たいために振舞う。


もちろん、すべてではない。
主体的に学び活動する子どもたちは、やがて、その行動基準を自分の中におく。
先生から、親から認められたいという気持ちだけで行動しない。
だれにも縛られない自分の価値基準をもてるようになることが大切である。


ほめる・・・叱る の二極化で子どもを指導しない。
本当は、ほめるとしかるの間にこそ、指導の醍醐味がある。
ほめるのでもない、叱るでもない間に、先生は行く通りの指導(接し方)を持たれているだろうか。

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