教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 758回 子どもたちの前に立てる先生だろうか

教育の世界は、新しい造語を伴って、あたかも新しい教育が優れているという印象を与えている。
教科教育、教育心理、教科教育法、教育工学等あらゆる場面から教育にアプローチしている。
しかし、教科教育の本質は、教育哲学にある。
かつて、校長を退職され、そのあと授業実践を通して全国を行脚された芦田先生。
国語教育を通して、教育の本質を追究された先生です。


芦田恵之助先生の言葉を拠り所として考えてみましょう。


教育の真諦(しんたい)は自己を育てるところにある。
 真諦とは、絶対的本質です。
子どもが生き生きとして活動していく源にあるものは何か。
先生の行動や態度、さらに、先生が成長していこうとする意欲を感じ取っている時ではないか。
私たちが真剣でなくて、どうして、子どもたちが真剣になるだろうか。
私たちがふだんから学問の世界に足を踏み入れないで、どうして、子どもたちを学習の世界に引き込んでいけるのだろうか。


子どもたちは、私たちの生き方そのものに寄り添って生きている。
私たちの生き方そのものに同調したり反発したりして生きている。
「私は,教師としてわからない、できていない」という自覚。
この知らないという真実の上にたって、教育の営みが始まると考える。


子どもは、教師を自分の鏡として生き方を学ぶ。
先生の言葉や表情、振る舞い。
やさしさや情熱。そして、冷たさも。
言葉で言えば、実に簡単なことである。
しかし、実際の現場では、方法論ばかりが出回っている。
子どもをいかに教えるか、育てるか。
教師自身、自分を育てるという意識が薄い。


子どもにちゃんとしなさいと言う先生自身がちゃんとした振る舞いをしているのか。
しかし、できていないことが多くていい。
ただ、少なくとも自己反省しているかどうかである。


子どもは、半日、先生と付き合っている。
先生の人間的な魅力に触れ合いながら自分を見つめていく子ども。
「先生すきだなあ」と思わせる人間としての魅力ある先生。
別に、取り立てて繕う、へつらうことはない。
先生が一人の人間としての個性と情熱を発揮すればよいことである。
特に、情熱は年令に関係ない。


「子どもたちの前にたてる先生だろうか」という振り返る毎日。
立てないことのほうが多い毎日。
それでも明日こそは頑張ろうと気を奮い立たせる。
その繰り返しで教師人生は終わる。
子どもが私を育ててくれたという感謝だけが残る。

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