教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想757回 教育随想 情報の海の中で生まれ 育つ子どもたち

ネット検索
目的をもってみることが少ない。
最初は、ある情報を把握したいと思う。
しかし、すぐに他の情報に心がうつろいでいく。
そして、ネット情報の蟻地獄に陥る。


必要としない情報に引き込まれる
どうでもいいはずの情報に翻弄される。
自分とはちがう異様な世界。
好奇心だけで検索する。
暇つぶしでもある。


私は、この状況に疑問をもつ。
座ったままで、世界中のいかなる情報も手に入れることができる。
ただの好奇心では。
人々は、ネット情報を手に入れて、一人前の評論家、物知り顔になる。
知らない人はいない。
情報の共有と世間は言う。
共有する必要がないもののほうが多い。
もはや、井戸端会議は必要ない。


私は情報が簡単に入手できることに怖さを感じる。
それは、情報の入れ方である。
求めて入れるのではない。
週刊誌を乱読するように検索している。
情報知識が検索者の思考、見方になる。


自分で考えるためには、
ネット検索から遠ざからなければならない。
ネット検索は、はじめから答えを求めている。
「・・・ランキング」は、自分のランキングではない。
参考にするのだからと理由をつけて検索している。
結局、大衆の傾向に自分が埋もれてしまう。


私がもっとも危惧することは、
ますます自分の内面から目が離れていくことである。
周囲の欠点、あら探し、批判ばかりがネット情報から浮かびあがってくる。
コメントの言葉、聞くに耐えない。
人格否定の言葉ばかりである。


それぞれの事情を認めていこうといいながら、反対の方向に向かう。
情報過多、偏向情報 フエイク情報 
コメント廃止の動きもあるそうだ。


情報のリテラシーと言われて久しい。
子どもたちは、今、情報の海のなかで生まれ、そのなかで育っている。
自己の価値観をもつことが難しくなっているように思う。


そもそも子どもたちは自分を育てるという意識をもっているのだろうか。
情報によって思考することが阻害されている。
問題➡答えのステップしかない。
問題➡思索➡答えのステップがない。
思索とは、迷いである。
迷いのなかで、問題解決のための選択肢をもつことができる。

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