教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想759回 目の前の子どもの事実から 指導が生まれる

一年間,子どもを担任して、学習指導を通して、どれだけの子どもたちが成長したのか。
そして、先生は、どれくらい先生として育てられたのか。
一年ごとに子どもと共に成長する先生は,10年たったらどれだけの先生になっているのか。


 本当に,子どもたちから学んでいるのであれば、先生は成長するはずだ。
子どもたちと一緒にしていること、いくつあるか。
その中で、自分も楽しんで、それなりに進歩していることはいくつあるか。
子どもと感動を共有することで 成長する先生。


 一年間の終わりに、去年よりも学級が成長したという気持ちがもてたか。
学級や子どもたちの成長は、担任の成長。
担任の成長は子どもたちの成長。
一年間たって,別れる時、先生からも子どもたちからも自然に口からついて出てくる言葉。
「ありがとう」、感謝しかない。


芦田恵之助先生の言葉
 教育が流行を追う一時のものであってはならない。深く、その場に根ざした、しかも、その時に適した、だれもが案ずるものでなければならない。何よりも,児童の上にあらわれる事実を見て、よく児童を知らなければならない。事実から教えられる、生きた知識が、はるかに総合的であり,生命的である。子どもは育つことを喜ぶものだ。


先生の指導は、子ども一人ひとりの事実から始まる。
どうも、先生方のお話を伺っていると、自分の教室の子どもなのに、一般的な子どもに置き換わっていることがある。
子どもの小さな事実の観察から始まっているのに、いつのまにか、子どもに
一般的なレッテルをはっている。


学習指導でも生徒指導でも、子どもの事実から考える。
「こんな子だ」とレッテルをはることなく、その事実から静かに原因をさぐる。
今まで担任した子どもの範疇のなかで考えないようにする。
目の前の子どもは、どんな時も、どの枠組みにも入らない
子どもの指導は、指導書や参考書から始まるのではない。
子どもの目の前の事実から始まる。
事実を大切にする先生である。


先日もタブレットを一人ずつ家庭に持ち帰ったことで、特定個人への悪口が書き込まれたとのこと。
このような事実を目の当たりにした先生は何を考えているのだろうか。
自分の学級に起こった事件だとしたら担任の責任はどうか。
いじめはますます陰湿になる。
先生が生徒指導を強化することでいじめに対処する。
それなのに子どもたちの闇はさらに色濃くなっていく。

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