教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 726回  4月の授業 挙手しない子どもをつなげて

新学期の授業が始まっている。
先生も子どもたちも新鮮な気持ちで授業に臨んでいる。
多くの子どもたちは、進級して今度こそはと期待感を抱いている。
当たり前のことだが、授業は学びの場を提供するところである。


その教室にいる全員の友だちと学ぶ場である。
誰もがその集団学習の場に参加したがっている。
ところが、子どもたちは学年が進むにつれて、授業に参加することが少なくなる。
子どもたちは、授業において透明人間のようになる。


その原因は、ひとつである。
授業者が最初から全員の子どもたちを相手にしていないことにある。
「はい」「はい」と挙手している子どもをつなげて授業をしている。
それを見ている子どもは何を考えているだろうか。
手を上げて発言している友だちをドラマを視聴するかのごとくながめている。
先生に指名されなければ、自分の考えを表にだすことはない。


授業において、子どもたちは三つに分かれる。
活発に挙手している参加者
それを見ている視聴者
さらに、自分をあきらめている傍観者である。


いつもお話することであるが、どうして、授業者は挙手している子どもで学びを進めるのだろうか。
その輪の中に入れない子どもたちが気にならないのだろうか。
先生曰く「今日は、私の言いたいことをA君が言ってくれました。よかったです。」
誰のための授業だろうか。


傍観者をつくらないためには、挙手児童を拒否する。
初めから手を上げさせる授業しない。
子ども一人一人を質問の内容に応じて指名する。
指名された子どもが返答できるような質問をする。
その時に授業者は、その子どもたちと交流する。(ここが最も大切)
眼差しを共有する。
どのような考えでも受け入れる広さが必要。
さらに、どのような子どもでも参加できるような易しい内容から入る。


4月の授業の進度はゆっくりである。
授業を通して、一人ひとりの子どもとおしゃべりをする。
授業を通して、一人ひとりの子どもと仲良くなる。

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