教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想723回 学級目標 そんなに急いでどうするの?

新年度が始まると、学級生活の準備という名目で、大掃除、学級のめあて、学級のルール、係活動分担、当番活動の割り当てなど、新学期の三日間は大忙し。


先生としては、最初にきちっとした型作りをしたい。
容器をつくってから液体を流し込む。
しかし、液体は、その枠組みの中で形が規制される。
形を変えることはない。


子どもたちと学級の枠、ルールも同じ。
どうしても先に組織しなければならないのは、実務的な仕事のみ。


清掃当番、学級生活ですから、当然、組織しなければならない。
当番の班をどのように決めるかは迷う。
とりあえず、暫定的に決める。
子どもたちの実態がわからないので「とりあえず」である。


座席、班、清掃は、4月は暫定的に決める、
正式決定は、5月連休のあとにする。
子どもたちにもそのように伝える。
その理由は、一か月、子どもをじっくりと観察したうえで決定するから。
4月は、学級づくりの準備期間で、正式にスタートするの5月のゴールデンウィークが終わってからにする。
病院に行っても、いきなり診断はできない。
まず、検査等で患者の様子を把握してから診断。
そして、治療となる。


学級のめあて
学級のめあて、なぜ、新学期早々決定するのだろうか。
企業ならわかる。
企業の目標や気風に、働く人が合わせなければならない。
営利を目的とした集団であれば仕方がない。
しかし、学級生活は、営利目的ではない。
個々の子どもたちの成長がねらいである。
そのための集団生活である。


子どもの様子がわからないのに、すでに学級目標が掲示されている教室がある。
子どもたちの様子がわからないのに、どのような実態、どのような子どもたちの願いをもとにして決定されたのだろうか。
ただ、学校目標は、学校全体の共通目標なので掲示する。
学校目標は目的であり、学級目標は目標である。
目標は、最終的な的に至るための道しるべである。



よく見られる風景。
先生は、学級のめあてを子どもたちに提示。
「みんな なかよし」「明るく元気な子」「がんばる子」「支える子」。
このめあては、何を根拠にして決めたのか。
子どもたちと出会ってすぐに決められるめあてとは、どのようなものか。
恐らく子どもたちに出会う前に決準備されていたのだろう。
めあてを決めることで先生だけが安心する。
世の中のスローガン、標語と同じ。
子どもたちにとっては、どこ吹く風の出来事である。


黒板の前面に学級のめあてが掲示されていると、なんとなくかっこいいというか、さまになっているような感じがする。
やがて、学年の終わりには、めあての掲示の画用紙が日焼けして色あせてみえる。


さらに考えなければならないのは、目標のようなスローガンは、それを掲げてしまった時点で、目標を追い求めることをやめることが多い。
学校目標もしかりである。
目標は掲示して安心している。
私たち学校、学級は実践していると対外的にアピールしているにすぎない。


たとえば、「みんななかよく」
本当にできるのかという問いを先生がだして考える必要がある。
なかよくとはどういう姿をいうのか。
「ささえあう学級」支え合うとは、具体的にどうすることか。
支え合う範囲をどのように考えるのか。
支え合わないほうがよいこともあるのではないか。
とにかく、子どもたちがわかるまでゆっくりじっくりと待つ。


もしかしたら「支え合わない学級」のほうが、子どもたちを強くするかもしれないのでは。
世の中のスローガンも同じ。
「いのちの教育」全くわからない。
命の教育を実践している学校に入ると、花壇の花がかれていることがある。
教室に花が枯れたままの植木鉢が目につく。
飼育箱の中の虫が死んで干からびている。
それでも校舎の目標だけが立派に場所を占有し、輝いている。



学級のめあては、子どもたちと一か月生活してから、五月の連休前かそのあとぐらいに子どもたちの意見を交えながら決定する。(主導権は先生であることを忘れない)
子どもの生活、学習面、友だち関係を把握するのに4月いっぱいの時間をかける。
学級経営案は、4月末ぐらいでいい。
できることなら、5月の連休のときにゆっくりと考える。

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