教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 721回 担任になっても 子どもの先生にはなれない

新しく学級の担任になる。
「最初が肝心だ。だれが先生かを子どもに理解させなければならない」と言われた先生がおられた。
子どもになめられたらだめ。
威厳をもって先生の指示に従わせる方針をたてて指導にあたられた。
これも先生としての一つの生き方。


その先生と同じ学年をもつ機会を得た。
4,5月は、教室がとても静かであった。
教室から教室への移動も列を作って移動している。
授業も静かではあったが、子どもの発言の声が聞こえることが少ない。
ある時、その先生は出張に出かけられた。
教室は騒然としている。
立ち歩く子どももいる。
2学期、子どものけんかが増える。
学級は、先生がいる前とそうでない時のギャップが大きい。


4月当初から、ベテランの先生は、しっかりと指導されている。
「最初が大切なんですよ。しっかりと大切なきまり、習慣を身につけさせなさい」
と若い時に言われたものである。
ある校長は言う。
最初の一週間が大切である。
ある教育書籍「一年生は一週間で一年が決まる」
一週間で決まらなかったらどうするのか。


朝会の時、ベテランの先生の子どもたちは、きちんと列を作って静かに校長先生の話を聞いている。
私の学級の子どもたちは、子どもたちの体が揺れ、話に集中していない。
ベテランの先生の横に並んでいる私の学級の子どもは目立って仕方がない。
だから、列のなかに入って注意をしてまわる
いや、注意しているふりをするといった方が正しい。


最初から厳格な態度でしつけをしている先生の学級は、月を追うごとに集団も個人も緩んでいく。
新しく出会った子どもたちの正体もわからないまま指導を入れることはできない。
一年間、子どもたちの成長は伸び悩むことが多い。
学級を維持管理するだけで終わる。(維持すらできなくなることも)


担任発表のとき、子どもたちの表情はとてもおもしろい。
まるで先生の人気投票。
若い先生、やさしい先生は人気がある。
年齢を重ねるたびに、ちょっぴり寂しい感じもする。
でも、芸能人の人気投票ではないと思い、冷静さを装う。


多くの先生は、最初から子どもの先生になろうとする。
担任になることは事実であっても、子ども一人ひとりの先生にはなっていない
ただ、その教室の所属、担当になったというだけにすぎない。
先生も、新しい子どもたちと同じ新入生。
子どもたち進級一日目なら、先生も一日目の担任
子どもたちと共に過ごす時間とともに、担任1か月、2か月・・・となる。
すぐには、子どもたちの「ぼくの先生」「わたしの先生」にはなりえない。
それには、長い時間を必要とする。
人間同士の触れ合い、分かりあいから始まる。


ところが、担任の先生になると、いきなり「私は、あなたたちの担任だ」という顔で、子どもたちを上から目線で指示する。
病院にいった患者が、診察室に入るや否や、「あなたは、顔色が悪い。どこかおかしいのでは」と言われるようなものだ。


初めて、診察してくださった医者。
一日目は、担当医であっても「私の医者、先生」ではない。
近所に何年も通っているホームドクターがいる。
私の体や健康状態を理解してくださっている。
検査の数値だけで一律に判断されない。
その前にかかっていた医者は、数値のみで病気を判断し多くの検査を実施する。
しかし、今の医者はそうではない。
あくまでも目の前の患者の状態を診察して治療や保健指導をしてくださる。
まさに「私の医者、先生」である。


担任の先生も同じである。
子どもたちのことを理解し、心を通わせるなかで、子どもにとっての本当の先生になっていく。
一人ひとりの子どもたちに心を寄せ、心を通わせ、心をつないでいく過程が一年間の歩みである。
個々で大切なことは「一年間かかって」という時間である。
4月の一か月で子どもを仕上げてしまわないことだ。


さらに、先生が子どもたちを育てる、指導するというのではなく、育てさせていただくという感謝の気持ちこそ必要である。
子どもあっての先生。
子どもたちが先生を育てる。
子どもたちが担任を先生にしてくれるのですね。

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