教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 717回  教育雑談 校長の講話は 授業

校長は学校の長(おさ)です。
卒業式、入学式での式辞は、来賓に対しては、学校に対する信頼を得ます。
教職員には、仕事の社会性、子どもの一生に深く関わることの重要さと使命感を呼び起こすものです。
校長の教職30年にわたる集大成が式辞に表れるものです。
一人の教師としての知性、理性、感性、徳性に基づいてのメッセージです。
年間通して6回ある各学期の始業式、終業式、朝会の講話、職員朝会は、すべて学校長の授業です。
職員や子どもたちに対する不平不満、教育委員会からの伝達、その時の思いつきを口にする時間ではありません。


ある高校生の話
入学式の時に話された校長先生の話。
「本校は、暴力といじめだけは、絶対許しません」
その高校生曰く
「喫煙、服装、援助交際は甘く見るということかな」


中学校の入学式で話された校長の話。
「私は教師という立場より、親、父親として皆さんを見ています。いつも考えています。」
これはおかしいですね。
教師の公正的立場を放棄しています。
父親の立場とはどういうことを指すのでしょうか。
感情のむき出しか、それとも、自分の考えを押し付けるのでしょうか。


校長先生は、第一線の責任者として、仕事を通して、部下に模範、参考を示す役職です。
実演を通して、教育の本質に迫ることのできる役職です。


私は、いつも校長先生にも授業をしていただくように提案しました。
やってみせてくださいとお願いしました。
「わかりました。参考になるかどうかわからいけどやってみましょう」と快諾。
「どうして校長が授業をしなければならないのですか」と逃避。
30年も経験しながら、見せるものが一つもないとは寂しいですね。


校長も自分の教科、学級をもってもいいのではないでしょうか。
実際に、そのような学校もありました。
自分で実践している校長は、職員を上から目線で見ません。
同行者として、職員とともに実践をされるでしょう。

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