教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 714回   心の眼が先 見た目は後から

一人の子どもが授業中にぼうっとしている。
先生は、ぼうっとしていることを注意して、子どもの行動を是正する。
見た目だけで子どもを見ている。
まず、その子を心の眼でとらえる。
勉強に関心がないのか。
何か悩みごとがあるのか。
親に叱られて登校したのか。
体調が思わしくないのか。


心の眼で子どもをながめる。
見かけの動きに惑わされないようにする。
指導していると、どうしても、子どもの振る舞いに心が止まってしまう。
止まると、そこから子どもたちの気持ちを思いやることができなくなる。


先生の感性、心のアンテナが動くときである。
先生は発信することは得意である。
しかし、子どもの気持ちを受信することが苦手である。
受信して、初めて子どもに向かって発信できる。


明るいような、暗いような、どこか淀んでいるような・・・受信。
その子どもから発せられるものを心のアンテナがとらえる。
見えないもののなかにこそ、子どもの真実がある。


見た目ではとらえられないものを感じる、感じとろうとする姿勢が大切。
もちろん、行動からその子どもの心の様子を推測することもある。
しかし、それとは違う。


朝、子どもたちと「おはようございます」と挨拶する。
一人の子どもに限定すると、昨日と今日の挨拶から、受ける感じが違うことがある。
声が大きいとか小さいとかではない。
その子から、感じとれる心の叫びであったり、心の淀みであったりする。


朝、教室に入る時、ドアを開けて身体を入れた瞬間に感じるものを大切にする。
あれ、空気が重く感じられるのはどうしてか。
教室を改めて見まわす。
すると、A君から発せられている空に暗さを感じることがある。


子どもを観察することは大切である。
しかし、その前に、先生は心のアンテナを張って、子どもから出てくる雰囲気を受けとめる。
そして、その雰囲気が彼のどのようなしぐさからでているかを観察する。


見えるものに心がとまると、見たことにとらわれて感性が働かないことがある。
発信力は受信力に支えられている。

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