教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 713回  学校教育目標は 金太郎あめ

教育反省は、すでに終わっている。
ある学校の教育目標を例として考える。
 「進んで」 「やさしく 」「たくましく」


どこの学校でも教育目標に関することは、次年度に引き続いて目標を継続しようという結論でスルーされる。
学校の教育実践として、最も根幹に関わる内容なのに、毎年、踏み込んだ検証はない。
今までのコロナ禍のマンボウと変わりない。
踏み込んだ検証なしに、次のマンボウを重ねて実施する。
実際の成果、問題点を明確に検討しない。


私は、学校参観、研究会で授業参観させていただくときに、いつも意識することがあった。
それは、授業のなかに学校教育目標がどれだけ意識されているかである。
もちろん、授業だけでなくすべての教育活動に、学校教育目標が実践されていなければならない。
金太郎あめがどこを切っても金太郎さんが表れるように。


授業において考えてみよう。
「進んで やさしく たくましく」という学校教育目標。


「進んで」学ぶ子どもの姿がどこに表れているか。
進んでとは、先生に引っ張られて学習する姿ではない。
何を学ぶのか、その目標をもって学習する子。
わからないことを進んで調べる子どもの姿。


「やさしく」学び合う(助け合う)子どもたちの姿があるか。
お互いの考えを支持しあうやさしさ。
友だちのわからなさをサポートするやさしさ。
考えの違いを受け入れていくやさしさ。
友だちの間違いを包み込むやさしさ。


「たくましく」の具現化はどこに見られるか。
わからなくてもわかろうとして考えるたくましさ。
わかってもさらに疑問をもって究明しようとする学びのたくましさ。
最後まで、自分の考えを根拠をもつてつらぬく子。


授業者は、これらをどのくらい意識して取り組んでいるか。
先生の教える姿、子どもの学ぶ姿に如実に現れる
かつて、研究会のたびに、授業者に研究会の席で、学校、学級の目標を窺う。
どうしても原点に戻りたくなる。

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