教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 712回  学校が問題児童をつくっているのでは

3年生のA君は、けんか、授業妨害のトラブルが多い。
学校は、その学級に対して、専科の時間に空きの先生がサポートする体制づくりをした。
学習も遅れているA君の補助をする。
授業妨害の行動を起こした時は、教室外に連れ出して指導する。


ところが、サポート体制、その内容について、職員会で話し合ったにも関わらず、その対応に違いが出てきた。
厳しく注意して、指導する先生。
子どもにとってよい先生になるために、やさしくする先生。
全く自由にさせている先生。


担任は、校長先生に相談。
保護者に自分の子どもの様子を知ってほしいので参観を依頼したいと。
ところが、校長が言うには
「懇談をして、親に子どものマイナスのことをブラスにつたえなさい。」
担任は、それでも、保護者が自分の子どもの様子を知るべきであると主張。
実際のA君は、家では親のいう事を聞く従順な子である。
登校すると豹変する。


保護者の学校参観を嫌がる校長。
保護者が参観に来ると、学校内の他のマイナイ面を見せてしまうのでよくないと言う。
しかし、実際は参観させることになった。


保護者、両親とも参観して驚きの色を隠せなかったらしい。
自分の子どもが教室で問題になっていることにびっくりしたようである。
父親は認めたくなかったようだ。
このケースの場合、厳しい父親の影が見える。
尋ねると、家では自分の子どもに厳格なしつけをしているようだった。
暴力的な父親らしい。


保護者に協力してもらっても、さらに、ひどくなることもあった。
そこで、学校は、精神科の医者の受診を勧める。
その結果、薬を飲ませましょうかという答えであった。
正確な診断名はなかったらしい。


やがて、職員会にA君のことて゜大きな話題になったことがある。
サポートする先生の指導がまちまちである。
だから、A君だけに許していることが多すぎることが問題になった。
それぞれの先生が、A君を前にして、どのようにしたらいいかがわからないらしい。
このような時にでてくる問題指導は「へつらう」ことである。
A君と二人で向き合って、彼に反発されたくない、嫌われたくない、問題を起こしてほしくないという気持ちが「彼にへつらう」という行為に変化したようだ。
担任もA君に流される傾向にあった。


さらに、保護者から問題提起があった。
3年生は、自習が多いとのこと。
A君の問題、それに関する友だちとのトラブルがあると、授業中でも、別室で数人の先生が指導するので、教室の子どもの勉強は自習になる。
授業時間を使うと、他の子どもたちの学ぶ意欲を削ぐことになる。
しかし、自習が多いことは、保護者のライン網で伝わっている。
子どもが親に伝えたことは、そのまま保護者の情報網の上に上がっているらしい。


3学期になると、担任の先生の努力の成果が表れた。
A君と楽しい会話ができるようになったらしい。
担任のA君に対する「何とかしたい」という気持ちを強くもって行動された。
まわりのサポートもあてにできなくなったことで、いっそう、悩み、いろいろと実践された。
その先生は話された。
「問題になる子がいるのではなく、私を含めてまわりの指導によって問題児童をつくってしまうとこともありますね」


その先生にとっては、大きな財産になったはずである。
マイナスのことを自分の宝物にできることが大切である。
教育を楽しいと一面的に言われる先生もいる。
しかし、それは、もっとも大切なことを避けているだけである。
一人ひとりの子どもに人間として、正面から向き合っていくならば、決して楽しいばかりではない。
私は、子どもを前にして、悩み、試行錯誤することこそ本来の教育実践だと考える。

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