教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 710回  意味のないことを させる意味があるのでは

学校生活のなかには、本当に意味がある指導なのか、疑問をもつことがある。
朝会のとき、校長先生が朝会台にあがると、子どもたちから挨拶をするという慣例をつくっている学校がある。
どちらから先にしてもいいのにと思うこともあった。
しかし、目上の者に対する礼儀を自然に教えているという見方もできる。
そんなこと意味がないという人もいる。
しかし、廊下で出会った時、先に、先生に会釈する子が増えたこともあった。


授業開始のとき、起立、礼をして始められる先生がいる。
私は、そんなことをしなくても先生から始めたらいいことだと考える。
しかし、それも一面的な考え方である。
気を付けして、身体の動きと声をそろえることは集団生活にとって大切である。
人は「けじめをつける」ことだと言う。
それも一理ある。
私たちは、一見、意味がないと思うことにも、見方によっては意味のあることもある。


「ノートに写しなさい」なんでもノートに視写させる先生がいる。
視写することには意味がある。
指導者にとつて意味のあることも子どもにとっては「どうして写さなあかんのや」と言う。
何のために視写するのか、指導者はねらいをもつことが必要である。
時には、子どもにとって意味を感じないことも強制的にすることがある。
子どもたちは、単純な作業、視写をこなしている。
視写は、子どもの能力に関係なく取り組むことができる。


子どもにとって意味のわからないことを強制的にさせる意味もある。
それは、子どもが我慢してすることである。
ひょっとして、これは、教育にとって重要なことかもしれない。
これに類することは、スポーツの世界に多々あるではないか。
一見意味のないように見えることも、子どもたちが社会生活をする上で必要なことがある。
なぜならば、社会生活は意味のないことをするほうが多いからである。
いつも、納得できたものを実行するとは言えない。
組織に入るとそれが身に染みてわかる。

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