教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想  702回 教員6年目の分かれ道 ベテランの道を進むのか

勉強会にこられている先生からお聞きした話。
同じ学年で6年目の先生がおられる。。
教材進度が遅れていてもいつのまにか進度通りになっていることが多い。
以前使ったワークシートをそのまま使うことが多い。
「ここの勉強、先生はどのように指導むされるのですか」と尋ねると
「さっと読んで終わりましたよ」と軽い言葉が返ってくるそうだ。


教材には、指導者の意図によって、重点教材とそうでない教材がある。
だから、さっと終わることもある。
しかし、読んで終わるのではなく、指導目標を達成するのに指導時間を少なくする。
あくまで、指導目標達成のためであり、教材を差し替えたり、投げ込んだりする。


その先生は、理科が好きらしい。
理科には自分なりのこだわりがあるとのこと。
それはいいことである。
ただ、いつも、前に指導したことをそのまま実践されている。
そこに、工夫がない。
子どもも学校も違っているのに指導方法が変わらないのはどうだろうか。


教職6年目の危機。
新卒3年間は、だれでもがむしゃらに頑張る。
何もわからないから、事務的なことも含めて努力する。


ところが6年目になると学校にも慣れてくる。
学級運営や子どもの指導もある程度理解できるようになる。
少しずつ手を抜けるようになる時代でもある。


私は、若いころからベテランと呼ばれる先生にはなりたくなかった。
指導になれてしまうことを恐れた。
新しい子どもの前では、いつも初任者でありたいと願ってきた。
同じ学年、同じ教材であっても
前の研究に頼ることなくできるだけ一から検討するようにした。
新しい子どもを前にして、今までの実践は役に立たないことが多かった。


先生も10年目になると、すっかりとベテランとして落ち着かれていることが多い。
それが悪いというのではない。
やはり人間のさがとして仕方がない。
だれでも、少しは楽をして仕事をしたいと思うのは当たり前である。


それでも、新しい子どもたちを迎えるとき、私自身も新しい先生にならなければと思ってきた。
教員には、マンネリに陥る時期がある。
それが6年目である。
さらに、10年目である。
20年目になると、すっかりとベテラン先生になる。
若い先生の未熟さを指導したい時である。
ところが、ベテラン先生は、授業発表をしてもだれからも厳しく指摘されることがない。
まわりがその先生に言いづらくなっているからだ。


初任から3年間の志を思い出して自分を振り返る。
目の前の子どもの年齢はいつも若い。
先生だけが老化していく。
それにつれて、ますます、子どもとの距離が大きくなっていく。
体力的にも、子どもと同じように動けなくなる。
ついていけなる時がくる。
だからこそ、指導者の感性と探求心は衰えさせるわけにはいかない。

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