教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 615回 子ども中心に見える学習ほど、指導者の意図が強い

先日、勉強会でのことでした。
指導案を検討している時です。
国語の季節の楽しみの教材です。
春夏秋冬のなかの「秋の楽しみ」の学習を検討しているときでした。
月見や秋の七草などの内容がのっています。
そして、子どもたちに「あなたはどんな秋にしたいですか」という問いかけがありました。
これまでに、春や夏の学習がありました。


私は、この教材で、あなたは何をわからせたいのですか。
この教材でどんなことに気付かせたいのですか。
この教材で、どんなことを考えさせたいのですか。
この教材で、どのような子どもに育てたいのですか。


すると、先生は、「目標は・・・・だから・・・こうしようと思います」
それは必要なことです。
しかし、十分なものではありません。
なぜなら、授業者の主体性がないからです。
だから、上の様な質問をしたのです。


「させたい」という指導者の意思を明確にするのが授業者である。
子どもの学びに任せて、追従するのが子どもを大切にするという風潮があります。
子どもの関心に合わせることは大切です。
子どもは、新しい学問、学習の世界を知りません。
事前に多少の知識を持っていたとしても、子どもにとっては未知の学問の世界です。


学びの中心は子どもです。
しかし、授業の中心は先生です。

総合的な学習の失敗は、まさにそこからきていました。
子どもに任せて寄り添うことが学習だと考えました。
しかし、その背景には、指導者の強い意図がなければならないのです。
こうしたい こうすべきだ これだけは指導したいという気持ちです。


指導者の強い指導の意思が根底になければならないです。
そうすることで、子どもの指導に方向性が生まれます。
子どもの興味関心に沿ってということと、子ども任せとは違います。


授業者の意図は、前にたって講義するとはかぎらないです。
指導者は、学習のなかで、姿を変えています。
子どもを横から、後ろからサポートします。
時には、指導者の意図を隠して沈黙を保ちます。
どのように授業者が姿を変えても、「させたい」という気持ちをもつことです。


授業は、子ども中心に見える学習ほど、指導者の意図が強く働いています。
その意図が表面的に見えないのです。
子どもたちの活気ある学びの姿が授業風景を彩っているからです。

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