教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 609回 先生という仮面

新任の頃でしたね。
教師、先生という肩書がうれしくもあり、重たくもありました。
子どもの前に立つ立場になったんだ。
子どもから先生と呼ばれるようになったんだ。
わくわくする私がありました。


私は、「先生」になろう。
子どもたちにとっていい先生なろうと思いました。
先生としての自ができたように思いました。
人間的に、少しは成長していこうと願った時です。


自分を先生という仮面に近づけようと努力する毎日でした。
私が先生としての資質にかけるものが多かったからです。
常に、子どもたちから先生と呼ばれることの後ろめたさがありました。


ところが十年も先生をしているうちに、先生という肩書きに酔いしれます
子どもを自由に指導できる立場です。
保護者からは先生と呼ばれる肩書をもっています。
実践の成果をあげてくると「すばらしい先生」という言葉が返ってきます。
そうしているうちに、自信と驕りだけが私にはりついてきました。


先生という肩書きに寄りかかって、日々を過ごすようになりました。
その心地良さを味わいながら過ごすようになりました。


ところが、先生時代の後半になって、私の中で違和感をもつようになりました。
先生の肩書きの下に埋もれていた私自身。
どこかに置き忘れてきたように感じてきました。
先生の肩書と私が少しずつ時間をかけて乖離してきたように思い始めました。
私は、自分を置き去りにしてき。ました。
先生としての私しか、見つめなくなったように思います。
気づいたら私のいない先生になっていました。


 世の中、肩書きをもった人間が汚職や犯罪に手をそめることがあります。
肩書きという仮面とその人自身が離れてしまったのではないかと考えました。
本来は、肩書きや仮面の下で、自分自身をみがきあげていくことが大切なのでしょう。


すでに退職した今、私は、いっさいの肩書きがなくなって、初めて私は私だけを見つめて生きていけるようになりました。
恥ずかしい人間だと感じました。
本当にだめな人間ですね。
 どんな時も私を置き去りにしてはいけないのです。
情けない私だと思いながらも、私は自分とつきあう日々を送っています。

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