教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 604回 どこまでも おしゃべり学習

かつて、ある市で国語の授業研究会が開催されました。
私の師匠がコメンテーターとして招待されました。
私もそこに招かれて参加しました。
一時間中、子どものおしゃべり学習に終始していました。
授業者は、そばで見守っているだけでした。
聞いているだけでした。
いかにも自分も子どもたちの話の中に没入しているかのようなジェスチャーたっぷりの聞き方をしておられました。


まわりの参観者の間からは、賛辞のため息が漏れ聞こえてきました。
その授業が30分間以上、延々と続いています。
私は、参観しているうちに、「これは授業ではない」と確信するようになりました。
子どもたちがあれだけ自分の考えを言っているのに、内容の質的変化が全くみられないことです。
ただ、同じような言葉を子どもたちが入れ代わり立ち代わりしゃべっているだけでした。


参観していると、いくつかのおかしい点に気づきました。


〇話している子どもたちの表情に柔らかさがない。
〇聞き手は、うんうんとうなずいているが、わかりにくい意見に聞き直しがない。
〇子どもの言葉に似ているようなものが多く、その子の個性的な言葉が少ない。
〇子どもが話したあと、ほとんどの子どもが先生の表情を気にしている。
〇子どもたちの発言は、自分の書いたノートを見て話している。
〇話し合っているというよりは、それぞれの自分の思いを発表しているだけ。
〇お互いの意見が食い違っているのに、その両者の間での対立がない。


そこにおられた市の指導主事は、新しい国語の授業だと褒められました。
私の師匠は、国語の学習とは異質の学習であると言われました。
深まりがなく、個々の子どもたちの本音が出し合った学習ではないと強調。


私も賛成でした。
世の中には、パーフォーマンス的な授業が多いことも事実です。


先生から離れて子どもたちが自由に話し合っていると、学び合いをしているように見えます。
学び合いとは 深め合うことです。
深まらない話し合いは、おしゃべり学習にすぎません。

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