教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 603回 できる子にすっぽり身を任せた授業

授業者は言います。
授業がうまくいきました。
あの子が私の言いたいことを言ってくれました。
私が予定していた子どもたちの発言がでました。


先生は、挙手している子を中心に学習を進めます。
先生の親衛隊です。
どんな意見を言ったら先生が喜ぶかを知っている頭のいい子たちです。
いつも先生がしてほしいことは何か、それを先生の表情から探っています。
先生は、自分の予定している発表がでるとうれしくなります。


指導案を立てるとき、先生が頭に浮かべる子どもは、できる子どもたちが多いです。
その子どもたちの考えを予想して、指導案を組み立てていきます。
先生が子どもたちの発表に耳を傾けています。
一人一人の子どもの意見を聞いています。
自分の要望する考えではない子が発表します。
「そういうこともあるね」
「もう少し考えてごらん」
「本当にそうかな」
「他にもっといい考えがあるのでは」
「他に、発表できる人はいませんか」
・・・と、自分の求める考えがでるまで指名を続けます。
子どもたちは、必死になって、先生が求める考えを探します。
特に、低学年に顕著に表れます。


高学年になると、先生の気持ちを知って、逆の意見をだします。
先生の出方をみます。
自分の考えがどのように扱われるかを試します。
塾で先に学習を済ませている子は、先生に挑戦します。
持論を展開して先生の能力を確かめます。


これらのことは、授業を参観しているとすぐにわかることです。
だれのための授業か、先生か、子どもたちか。


何度かお話してきました。
授業は、泥臭いものです。
子どもたちがわからなくなったり、違った考えを持ったりすると、先生は、授業に行き詰まってしまいます。
先生は、授業の広場に、どれだけ違う考えの子どもたちを集めることができるか、それが授業者の力量です。
子どもから学ぶと言いながら、子どもの発言を避けることはないでしょうか。

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