教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 569回 物語文の指導 指導者の考える「物語の落ち」に誘導?

物語文でなければ国語の指導ができないと言われる先生がいます。
まず、登場人物の心情を中心にとらえます。
指導過程において、「登場人物の気持ちは?」という質問の連発。
子どもが自由に登場人物に寄り添うのではありません。
指導者の教材解釈に基づいた考えを核にして、子どもたちを追いつめます。


ここが問題なのです。
指導者は、作品に対して教材解釈をすることは必要です。
どんなに解釈してみても、所詮は、指導者の額縁という枠のなかでしか解釈できません。
指導者の人生観、価値観、人間観という枠のなかで作品を眺めます。
小説を各個人が楽しんで読むことと似ています。


指導者の解釈は、その時のひとつの見方、捉え方です。
それを基にして、子どもたちのいろいろな解釈、感じ方に出会います。
ですから、指導者の解釈は、常に、柔軟で子どもたちに開かれているようにします。


一定の解釈に指導者がこだわると
指導者の思いにかなう子どもの考えに寄り添い、。
そして、指導者の考える「物語の落ち」に誘導します。読み方を狭めていきます。
指導者の解釈により近づいたらよしとして授業を終了させます。


この教材は、このように指導すべきである。
この作品は、作者の意向をくんで解釈すべきであるという作品論になります。
分厚い指導案をもとにして指導される子どもたち。
指導者の一面的な教材解釈は、子どもたちの広がる考え、感情を削り落としていきます。
物語文は、入り口が狭くても、最後の場面に近づいていくと、自由な個人的な解釈と感動が余韻として残ります。
かつて、読書好きな6年生が話してくれたことがあります。
「学校で物語文をみんなで読むより一人で読んだほうがおもしろいよ。」
それが私の反省の始まりです。


先生の解釈も子どもたちにとっては、一つの解釈です。
子どもたちの新鮮な作品に対する想いが自由に出されるといいですね。

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