教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

 教育随想 536回   4年国語教材「一 つ の 花 」 教材研究 その1

回は、4年の国語物語文、「一つの花」について書きます。
これは、あくまで、私の拙い解釈であり問題を多く含むと思われます。
教材解釈に加えて、授業への展開の角度についても少し書いています。
教材を先生自身が解釈すると同時に、子どもたちにどのような角度をもって展開するのかを考えます。
教師の教材解釈と展開の角度、その教材のどこから子どもたちに提示、指導していくかも含みます。


 この教材は、ささやかな家庭の幸せ、親子の絆を無残に破壊する戦争の時代を背景に、子どもに対する親の願い、生命の尊さ、平和への願い等について描いたものである。
 現在の子どもたちの環境とは異なるが、それをこえて、子どもたちに深い感動を与えることができる教材である。
 登場人物の気持ちや行動と場面の様子とを結び付けて読み深め、親子の情愛を深く理解させるとともに、平和を願う心を育てる。


1場面
「一つだけちょうだい。」
これが、ゆみ子のはっきりおぼえた最初の言葉でした。
 幼い子どもが最初におぼえた言葉としては、異様な感じがする。
 どうしてこのような言葉を最初に覚えたのかという疑問がてでくる。。
 今の子どもたちなら、「たくさんちょうだい」「もっとちょうだい」なのに、どうして「一つだけ」なのだろうか。 
 このような疑問を抱きなから読み進めることになる。
 戦争の時代、食べ物のない時代、空腹の時代ならば、なおさら「もっとちょうだい」というようになるのではという疑問が深まる。


ゆみ子は、いつもおなかをすかしていたのでしょうか。
 作者は、言いたいことを話者をして語らせるのではなく、読者に答えさせようとする表現方法をとっている。
 この話者は、どの人物の気持ちも語っていない。
 三人称、客観の視点である。


 「じゃあね、ひとつだけよ。」と言って、自分の分から一つ、ゆみ子に分けてくれるお母さん。
 食べるものを子どもに分かち与えている親の愛情、本質がわかる。
 戦争と母親の本質が描かれている。
 母親の本質とは、自らの食べ物さえわが子に惜しみなく与える行動である。


ゆみ子は、知らず知らずのうちにおかあさんの口ぐせをおぼえてしまった。
 ここで初めて、最初の二行の文の内容が納得することになる。
「一つだけ」という言葉は、母親の言葉であったことがわかる。


2場面
ただ、食べることだけにがつがつしているゆみ子の様子。
お母さん「なんてかわいそうな子でしょうね」
とても嘆いている、不安に思っている母親の姿。
母親はどうして、そんなゆみ子をかわいそうに思ったのだろうか。


お父さん「どんな子に育つのだろう」
地の文からは、登場人物の気持ちは全くわからない。
しかし、お父さんの言葉や行動から、お父さんの気持ちを想像することができる。
「深いため息」をついて言いました。
どんな子に育つのだろう。
「そんなとき、お父さんは、きまってゆみ子をめちゃくちゃに髙い高するのでした。」
 この言葉からおとうさんの強い不安、心配を想像することができる。
 高い高いしかできない、何もしてやれない親心を感じ取ることができる。


3場面
今まで気持ちといえば、登場人物の気持ちが中心であったが、ここでは、話者の
気持ちをが表れていて、それを問題にすることになる。


「それからまもなく、あまりじょうぶでないゆみ子のお父さんも、戦争に行かなければならない日がやって来ました。」
話者の語りの中には、余儀なく戦争に招集されていくお父さんに対する気持ちを読みとることができる。
ふつうなら「戦争に行くことになりました」となるところである。


 読者がその場に第三者として居合わせて、お父さんやお母さん、ゆみ子の様子を外側から見て、いろいろ感じたり思ったりしているのが目撃者体験である。
 「一つの花」では、話者とともにそこに居合わせる人間の気持ちになって読んでいく読み方である。


「お母さんは、戦争に行くお父さんに、ゆみ子の泣き顔を見せたくなかったのでしょうか。」
「みせたくなかったからです」と書いてしまうと、お母さんの視点で書くことになる。
あくまで、客観的にお母さんを見ている、目撃しているにすぎない。
読者が「それはそうだ」とというように反応することになる。
 話者をして、問いかける語り方をしていることになる。


お父さんは、ばんざいしたり、軍歌を歌ったりして、戦争へ行くことを肯定しているように見えるがそうではない。
 おそらく普段は、そのようなことをしないだろう。
 それでは、なぜ、そのようなことをしたのだろうか。
ぐずりそうなゆみ子がいるから、時代の流れの中で、周りと同じようにふるまっているとは考えられないだろうか。
「戦争になんか行く人ではないかのように」歌をうたい、万歳してるお父さんであることを押さえておく必要がある。



視点を変えて読むとどうなるか。
この場面をお父さんを中心にすえて読むとどうなるか。
この場面でお父さんが目にしたものは何かを整理してみよう。


①ゆみ子を背負って遠い駅まで見送りにくれているお母さんの姿。
  もう帰って来れないかもしれないと思うと胸がつまる思いである。
  ゆみ子は私が何をするために家族を離れるかを知らないまま別れるのだ。
  ゆみ子をお母さん一人に任せることが申し訳ない。


②駅に着くまでに「一つだけちようだい」と言ってゆみ子におにぎりを食べさせてい
 るお母さんの表情。
  お母さんが作ったくれた私への最後の弁当をゆみ子に食べさせなければならなかったお母さんのつらい気持ちがわかる。
 ゆみ子が泣くことで私に心配をかけさせまいとする気遣い、その優しさを思うとつらい。
 ゆみ子を残していく以上にお母さんのことが心配でたまらない。


③駅の前に集まる見送りの人々の様子と声。
 私には、なじめない周りの人々のばんざいと様子。


④最後に見るゆみ子の表情。
 もう会えないと思うとつらい。
 それでもすくすく育ってほしいという思いでいっぱいである。


⑤最後に自分を送りだしてくれるお母さんの姿。
 お母さんを支えることができないつらい思い。
 家族を残して、戻れるかどうかわからない戦争に行かなければならない悲しみ。


このお父さんの家族への思い、特に、お母さんの苦労を思うことによる切なさが、ゆみ子がぐずった時に手渡した「一つの花」である。
 コスモスの花をあげてもゆみ子は喜ぶかどうかわからない。
 しかし、これは、お母さんとお父さんの一つの花、ゆみ子である。
コスモスの花はゆみ子、その花をゆみ子に贈ると同時にお母さんへのメッセージでもあ. る。


一つの花の花はゆみ子である。
そのゆみ子を託すために、お母さんに贈った花でもある。
花を渡して泣き出しているゆみ子が泣きやむという保証はないだろう。


たまたま、かわいいコスモスの花を見かけた。
ゆみ子はその花を見て喜んだ。
お父さんは、食べ物だけではないコスモスの美しさがわかるゆみ子であることがうれしかったはずである。
お母さんがお父さんからコスモスを通して受け取ったメッセー。
最後の場面にコスモスのトンネルをくぐるゆみ子の姿が現れる。
それは、お母さんのお父さんの想いに対する答えになっていると考えられないだろうか。


次回に続く

×

非ログインユーザーとして返信する